今のJWの「会衆」は一世紀の「クリスチャン会衆」の姿をそのまま真似ております。
従いまして「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物となる民」ペテ一2:7-9。と称される神の会衆に属する人々と同じ思い、同じ考え、同じ希望、同じ信仰が、今でも「会衆」に交わる人に求められることになります。
初めて会衆に交わった方は「真のクリスチャン」とはこのようなものと共感するかもしれませんが、長年交わっている方にしてみれば終わりの来ないエンドレスの教えにいささか閉口しているのが実情です。
多くのJWが「集会」に出席しても、「何かしらしっくりしない」ものを感じているのはそのためかもしれません。
「一体何処までやれば、自分は救いに到達できるの・・・・」みたいな諦め口調か、「ま~いいや、このまま組織についていけば何とかなるでしょう。」見たいな達観派になるかしかありません。
出席しているJWに「あなた王なる祭司ですか」と尋ねれば「いいえ、大群衆です。」と必ず答えます。
その大群衆と称する人たち(実際は聖書的根拠は一つもありません)が、一世紀の天の報いに預かる人々と、まったく同じ規定を当てはめて救いに到達しようとする。
実は「天と地」程の違いがあるのですが。
非常に滑稽な話なんです。でも、行きがかり上このような姿になってしまったのです。(当ブログで記述済み)
「会衆」に交わる地の民(大群衆)は、何の疑問を持たずに「組織」の教えるままに自分を厳しく律します。それが救いに預かると教えられているからです。
なんと無知で、けな気な国民なんでしょうか。いや、哀れな民です。
一世紀の書士やパリサイ人から虐げられていた「アムハーレッツ」と同じ立場に立たされている民です。
それで、「会衆」(エッグレーシア)の真の意味は、ユダや国民が退けられた後、イエス・キリストを岩塊とする「自分の会衆」を立てることにより始まりましたマタ16:18.。それは西暦33年のペンテコステの時に生来のイスラエルの会衆に取って代わりました。
彼らは「天に登録されている初子たちの会衆」でその総数は144,000人です。
そして彼らは子羊の行くところどこでも着いていきます。・・・・天までもです。
このように「会衆」とは一世紀のクリスチャン会衆に限定して使われるべきものなのです。
組織が用いている「会衆」という言葉はニセモノの言葉です。
くれぐれ混同したり惑わされされないようにしましょう。