忙しくて、しばらく空いてしまいました。

     

      以前のブログの続きのようなものですが。

ハルマゲドンを生きて通過する。という現役のJWの信仰に水を差す話です。

 

     さて、人間の目から見ると命は命ですが、神の視点で見ますとそうではないようです。

このことを的確に表わしている言葉としてマタイ22:29-32を上げることができます。

 

 29 イエスは答えて言われた,「あなた方は間違っています。聖書も神の力も知らないからです。30 復活のさい,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。31 死者の復活については,神によってあなた方に語られた事柄を読まなかったのですか。こう言われました。32 『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。この方は死んだ者の神ではなく,生きている者の[神]なのです」。

 

 文脈は復活を否定しているサドカイ派の人々の質問に答える場面でした。

 

さて、この聖句。人間の視点から見ますと難解な意味合いで混乱してしまいます。

しかし、神の視点で見ますと、その意味が容易に理解できます。

 

     神によって語られた言葉とは、いばらの茂みの記述のことですから、出3:6のことです。

神がモーセに対してこの言葉を言われた際に「アブラハムが生きていた時の神とか、イサクの生きていた時の神である」とは言いませんでした。そうではなく、まるでそのまま生きている人物について語っているように言いました。

 それで、こうしたことからアブラハム、イサク、ヤコブは肉の身体では死んでいるとはいえ、神の視点では生きている存在なのです。

 

     では、生きているとみなされる根拠は何でしょうか。

パウロはそのことを次のように解説しております。

 ロマ4:3.「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」。また、こうも書いています。「わたしの義人は信仰のゆえに生きる」ヘブ10:38.。ガラ3:10.。ロマ1:17.。

 

 上記の記述は、律法による行いによって義とみなされることが出来なかった生来のイスラエル国民に対して、何が義とみなされるかというパウロの論議の中で扱われた表現です。

 パウロはそれらを次のようにまとめています。

 

 ロマ5:1~18

  1それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。・・・・・・・・。
 8 ところが神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。9 それゆえ,わたしたちは[キリスト]の血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。10 わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,[み子]の命によって救われるはずだからです。11 それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通し,神にあって歓喜しています。この[キリスト]を通して,わたしたちは今や和解を授かったのです。・・・・・・・。
18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,一人[の方]の従順を通して多くの者が義とされるのです。

 

     パウロの説明でお分かりの様に、人は罪のうちに留まる限り死んでいるのと同様で、その罪が取りさられてはじめて義とみなされることが出来ます。義人は信仰によって生きるとあるとおり生きるためには義と見なされなければなりません。ロマ10:1-3.。

 イスラエルは、律法を守ることによって義を勝ち得ようとしましたが、それは一層違反を明らかにする事となり、死の束縛から解放されるには至りませんでした。

 

     従って、人間を罪から解放し、且つ義とみなされる行為はただ一つ、イエス・キリストに信仰を働かせることによる賜物しかありません。ロマ5:17.。8:3,4.。

 

     神は最終的にこの地をみ子によって裁かれます。

 

 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。使徒、17:3.。

     

     また、ペテロもこう書いております。

  

 しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。ペテロ二3:13.。

 

     そのような訳で、私たち人類はアダムから受け継いだ罪から解放される必要が有り、人は死ぬと一旦罪から解放されますが(罪の報いは死)、その後の順序として始めて義によって生きる見込みが生じます。

 

     昔の義人は信仰によって義とみなされました。それでも、肉の身体では死にました。罪のうちにあったからです。それ以外の人類は、生きていたとはいえ神の目から見て死人でした。みな一様に墓に行きました。

 一世紀のクリスチャンはキリストに信仰を働かせたゆえに義と宣せられ霊の身体で甦らされ永遠の命を享受します。彼らは終わりの時にイエス・キリストが人類を裁くとき祭司として働きますが、それでも一旦肉の身体を捨てなければなりませんでした。

 そのほかの人類は昔の死んでいった人々と同じように死人でした。同じように墓に行きました。

 

     それから、上記の使徒17:3の聖句が人類に及ぶのです。

その時、地上は最後のアダム(イエス・キリスト)による復活が生じます。

 人類は、それ以降初めて義を学びます。千年統治のことです。

それでも未だ生きているとはみなされません。

その、千年の終わりを首尾よく通過したものだけが生きているとみなされるようです。

それが「聖書」の真理であり順序のようです。

 

     生きてハルマゲドンを通過するという教えや信仰は全くの出鱈目であるという事がお分かりいただけますでしょうか。