JW組織の中で「忌避」ほど、残酷で非人道的で愛の無い行為はありません。

ネットでも、この制度に対する非難や問題提起で賑わっております。

 

     組織が「排斥」の根拠として取り上げている聖句は、先のブログで書いたとおりコリ一5:2,3,5.8などですが、タイトルの忌避についてはそれらの聖句の後半の部分。コリ一5:11となります。では、引用してみます。

 

 11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。

 

     組織の言う忌避の目的は、交友を断つことによって罪を犯した当人の悔い改めを促進させ、エホバの下に立ち返らせる意味があると云います。(実際には何の効果もく・・・・、むしろ互いが傷つき損失と損害だけしか残りません。悪魔の仕業なのかもしれません。)

 結局その目的の名の下にどれほど、大勢の方々が理不尽を強要され、当人はもとより、友人たち、家族、親族、仲間たちが辛くて痛くて悲しい日々を余儀なくされてきたことでしょうか。

 

 たまたま、勘違いしてこの組織に戻ってきた(1年で戻れたならそれは異常に早いとみなされ、それを受理した長老は削除されることがある。したがって2年から3年は掛かるケースがある。)人はどうにか、元に近い状況は取り戻せるものの、失った損失は金銭に換えられないものが現実として残ります。

 

 また、これを機に、すっかり目覚めてしまった人は、元の状態に戻ることも出来ず。これもやはり失った損失の大きさだけがその後の人生に重くのしかかってしまいます。

 

     もとより、こうした排斥も忌避も霊によって生まれた144,000人、霊的イスラエルと呼ばれる祭司の人々だけに限定されるものとして「聖書」は記述しています。

 

 それ以外の人類は皆世の人であり、神を知らない諸国民なのです。

 これも「聖書」ではっきりと定義しております。コリ一5:12,13.。

 

     1800年代後半のラッセルを中心として立ち上げた「聖書研究者」たちは、おそらくここまでの「聖書」理解は進んでいたと思われますが、しかし。

 自分たちがその一部で有り、イスラエルの残りの者であるという捉え方は「聖書」を正しく理解する上でかなりの障害となっていたことには、さすがに気付いていなかったようです。

 

 こうした考え方は「聖書」に書かれているすべての事柄を、自分たちに適用するといった忠実さの習慣につながり、1914年の預言はづしも「聖書」を知る魅力のほうが勝り、後に大群衆の実態が取り沙汰される1920年代になっても、それらを含めた「神の会衆」の一部という極端な聖書の理解が出来上がってしまい、それに対する「聖書」解釈の冷静な吟味がされないまま、現在に繋がる統治体とクリスチャン会衆といった構図の形が出来上がっていったようです。

 

     したがって、排斥、そして忌避という行為も「神の会衆」に属するすべての人に無条件で適用されてしまい、そこには大群衆も油注がれた残りの者の区別も無く、皆一様に「聖書」の言葉を当てはめるものとして、組織の流れに乗せてしまったのです。

 

 今日の排斥や忌避にまつわる、組織の権利の強要。数多くの矛盾。到達できない迷路のような真実。神の愛とキリストの精神と矛盾する現実の混乱。・・・・・・etc。

 

 これ等はすべて、統治体と称する人々による「聖書」の正しい理解の欠如によってもたらされた悲劇の結末なのです。

 

 私から云えば、この組織の指導者たちは「聖書」を純粋な思いで研究していない。いや、読んでいないのが実情なのかもしれない。

 

 であれば、そのような人たちから指導されるものは何もありませんし、注解(たとえばブロードキャステイング)も、信仰を鼓舞されることは何も無いということです。

 

 皆さん。あの人たちに「真理」を求める純粋さを感じることが出来ますか?。

私には、これっぽっちも見い出すことができません。

 

 

     次回は、今日のクリスチャン会衆に交わる、いわゆる大群集と称する人たち、一般の人類について書きます。