この組織のなかではかなり大きなテーマである「排斥」の問題について取り上げてみます。

     組織が「聖書」的裏づけとしてよく用いる聖句は下記のとおりです。

 

     コリント一5:1-5。

 ・・・・・・・この行ないをした人があなた方の中から取り除かれるように・・・・・・・そのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。

 

 そのような人とは、どんな人ですか?。続く11~13ではこう書かれています。

 

 11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のかかわりがあるでしょうか。あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁かれるのではありませんか。「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります。

 

 パウロは自分と同じ仲間の兄弟たちに対してこの言葉を述べているのです。

その兄弟とは、天のエルサレム、霊的イスラエル、祭司の国民、神の会衆に属する選ばれた人たちのことです。ヘブ 12:22.。

 

 それは秘儀であって、罪のうちに生まれた人間がキリストの贖いに信仰を持ち、追随者として聖霊によリ油注がれて、霊の身体でよみがえり「聖なる国民」として新たに誕生することを意味するのです。 ペテ一2:7-9.。

 啓示の書によれば、彼らはイエス・キリストの従属の祭司として、千年の間地に対する王として共同の支配を行い,人類に対する完全な赦しを差し伸べる役割を担います。啓20:4,6

 

     そのような訳で、選ばれた種族、天の召しに預かる人類から買い取られて聖なる国民が、地上にいる間、アダムの子孫とはいえ聖霊によって一旦清められたのですから、それでも過ちを犯し続けるなら、その人は神の会衆からは当然排斥されるべき存在です。このことに異論の余地はまったくないでしょう。

 

     聖書はこう書いております。

  一度かぎりの啓発を受け,天からの無償の賜物を味わい,聖霊にあずかる者となり,5 神の優れた言葉と来たるべき事物の体制の力とを味わっておきながら,6 なおも離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです。なぜなら,彼らは神の子を自分であらためて杭につけ,公の恥にさらしているからです。へブ6:4-6。.

 

     人類から買い取られた祭司だからこそ、こうした基準を受け入れるのにふさわしいのではありませんか。

 千年の裁きの期間中に、罪を習わしにする祭司から癒される様子など、私たちには想像することさえ出来ません。

     

     したがって、この聖句は彼らに適用される言葉として限定されたものです。

 

     ところが、その祭司の取り決めによって、受け継いだ罪から解放されるために千年もの期間を要する一般人類が、現在クリスチャン会衆に交わっていると言うだけの理由で(これについては別の機会に詳しく述べます)、その人たちの一度か二度の失敗をまるで聖霊に対する冒涜であるかのようにして会衆から断罪し追放するということがあって良いのでしようか。

 

 それは「聖書」の何処にも記録されていない人間の妄想から生まれた産物なのです。また、神の高尚で、偉大な救いの取り決めを一方的に無視する知的動物的な行為ですから、神がそれを許すはずはありません

     

     「外部の人々は神が裁かれるのではありませんか」と述べたコリ一5:13のパウロの言葉は、裁きの期間中における私たち全人類のことを指している言葉として受け入れることが出来ます。

 

     排斥とは、神の会衆の中から、すなわち霊的なイスラエル、天のエルサレム、従属の祭司の中で罪を習わしにする者を追い出して、会衆を清い状態を保つための神の取り決めに限定されることなのです。

 

 

     次回はこの続き「忌避」について扱います。