研究記事は今週から2週にかけて「霊的な人」について扱います。

組織が好んで扱うテーマです。

 コリント一2:14-16を引用し、「霊的な人」と「物質的な人」との相違を論じます。

 

例によって「霊的な人」になるために模範とすべき人。

「霊的な人」のなるため分析と自問。

霊的な目標を持って成長する。

聖書の原則を当てはめる生き方をするためにまた自問する。

ザットこんな内容なのですが・・・・・・・。

 

     そもそもパウロが論じている「霊的な人」とは、神の神聖な奥義を理解する神の霊を受け入れる人のことを述べています。少し長いですがその部分を引用します。

 コリ一2:6-16.

 

 6 さて,わたしたちは円熟した人たちの間では知恵を語ります。といっても,この事物の体制の知恵でも,この事物の体制の支配者たちの[知恵]でもありません。彼らは無に帰するのです。7 わたしたちが語るのは,神聖な奥義の中の神の知恵,隠された知恵です。それは,わたしたちの栄光のため,事物の諸体制の前に神があらかじめ定めたものです。8 この[知恵]を,この事物の体制の支配者はだれひとり知るに至りませんでした。[それを]知っていたなら,栄光ある主を杭につけたりはしなかったでしょう。9 しかし,「神がご自分を愛する者たちのために備えられた事柄は,目も見ず,耳も聞かず,人の心に上ったこともない」と書かれているとおりです。10 神はそれを,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示されたのであり,霊がすべての事,神の奥深い事柄までも究めるのです。
11 というのは,人の事柄は,その人のうちにある人間の霊を別にすれば,人々のうちいったいだれが知っているでしょうか。それと同じように,神の事柄も,神の霊を別にすれば,だれも知らないのです。12 そこで,わたしたちが受けたのは,世の霊ではなく,神からの霊です。それは,そのご親切によって神から与えられている物事をわたしたちがよく知るようになるためです。13 わたしたちはそれらの事も,人間の知恵に教えられた言葉ではなく,霊に教えられた[言葉]で話します。わたしたちは霊的な[こと]に霊的な[言葉]を結び合わせるのです。
14 しかし,
物質の人は神の霊の事柄を受け入れません。それはその人には愚かなことだからです。また彼は[それを]知ることができません。それは霊的に調べるべき事柄だからです。15 一方,霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません。16 「だれがエホバの思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか」とあるのです。それでもわたしたちは,キリストの思いを持っているのです。

 

     霊的な人とは、神の神聖な奥義を理解してそれを語れる人のことを指しており、その神聖な奥義とはイエス・キリストについての真理のことです。

 

     このことを事例で言いますと。

 イエス。キリストが杭に掛けられたとき、その傍らで罵倒したりつばを吐きかけたりした者が大勢いました、目に見える王を期待したが裏切られたと考えたのでしょう。

 しかし、彼らが救われるためにはイエスは死ななければならないことを彼らは知る由もありませんでした。自分達で杭に掛けた方によって結局は自分達も救われることになる、これが神の知恵であり、見えるものに絶対の信頼をおく、肉的な人には到底理解できないことでした。

 

 

     「ものみの塔」の記事がこうした点を少しでも扱えば、イエス・キリストへの信仰も増すというのに、それらには一言も触れずにただ、「組織にとって必要な人材」、「組織にとって有用な人材」、「組織に言いなりに付いてくる人材」を訓練し養成することだけに関心があって、そのために「霊的な人」を目指しなさいと、まるで教育訓練の調教書のようなような扱いです。

 

     井の中の蛙はそのなかの水とわずかな食物で育つしかありません。

水が枯れたり食物が途絶えたりしたら死ぬしかないのです。

このままでは井戸の中で飼い殺しにされてしまいます。

と言うか、死ぬ前にありったけの財産を搾り取られてそのまま飼殺しという仕組みです。

 

     井の中の蛙が外界に気付いてもらうためには、外からの水を入れるか、違った食物を食べるかしかありませんが、長年慣れ親しんだ水の味をおいそれと忘れ去ることができるわけではありません。

 集会で一人浮き上がった注解をしていますが、一体何時まで続けられるのかまったく自信がありませんが、イエス・キリストの証人として使命をはたすただそれだけです。