【木を見て森を見ず】・・・物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと。
という意味のことわざです。
しかし、意味がちょっと抽象的すぎて、例を挙げるのがなかなか難しくはないでしょうか?
そのままにしていては危険ですよ。
世の中には、思いもよらない危機というものが、あなたの思っている以上に多くあるのです。
例を挙げましょう。
もし、日常のとあるシーンであなたが「木を見て森を見ず」という言葉をしたり顔で繰り出したとします。
しかし、あなたは不用意にも失念していたのです。
あなたの声が届く範囲に奴がいたことを!
奴は、あなたを試すような目つきで「例えば具体的には?」というビーンボールを投げてきました。
突然のことに、あなたは戸惑うばかり。
咄嗟には、具体例が浮かんできません。
大ピンチ!!
しかし、心配には及びません。
先日私は、このことわざにジャストフィットする出来事を体験したのです。
それを今からあなたにお教えいたしましょう・・・
(前フリ終了)
辻村深月さんが直木賞を受賞してから数日が経ちました。
やはり著名な賞の影響というのはすごいもので、発表のあった17日やその翌日の18日なんかは、ニュース番組を見るたびに取り上げられていたような気がします。
もちろんその影響は本屋さんにも波及しています。
何件か本屋に行きましたが、辻村作品を取り揃えてコーナーを作っている書店もかなりありました。
私が通勤の時に乗り降りする駅の前にある小さな本屋も、ご多分に漏れず、小さいながらもコーナーが作られていました。
「受賞したから読んでね」的権威主義な物言いはあまり好きではないのですが、それでも好きな小説家のコーナーが作られているというものは嬉しいものです。
にやけそうになる顔を引き締めながら、私はそのコーナーに近づきました。
やはり、読んだことのない人に読んでもらおうという試みなのか、デビュー作「冷たい校舎の時は止まる」をはじめ、「子どもたちは夜と遊ぶ」「凍りのくじら」「僕のメジャースプーン」等、文庫本を中心に陳列されていて、普段こんなにも多くの辻村作品を平積み(表紙を上にして積み上げられている陳列方法)で見る機会があまりないので、何だかテンションが上がります。
そして、そのコーナーには手書きのPOPまでありました。
『第147回直木三十五賞受賞』
なんて書いてあって、再びその話題性に感心してみたり。
で、そのPOPは黒地に白文字だったのですが、辻村の「辻」だけ赤い色で書かれていました。
一瞬なんでだろうと思ったのですが、ははぁ、そういうことかと納得。
というのも、辻村さんの「辻」の字は通常の「辻」とは違って、しんにょうの点がふたつあるのです。
通常の点の上に、もうひとつ点があるのですよ。
えーっと、説明が難しいな。どう説明すればいいのやら・・・
と思ったら、なぜかウチのPCはデフォルトで辻には点がふたつある・・・?
というより、点がひとつヴァージョンの辻が無い。
なぜだ・・・?
ひょっとして、点ふたつが正しいのか・・・?わ、わからん・・・
・・・・・・えーっと、よく分からないのでこの話題は置いておきましょう。
要するに、文字の色を変えたってのは、「このしんにょうは点がふたつあるんですよね。存じ上げておりますよ。みなさんはご存知でしたか?」的なアッピールなのではないかなと思うんです。
店員さんの中に、辻村ファンがいらっしゃったのでしょうか。
細かいところですけど、こだわりが感じられて良いと思いますよ。このPOP。
『第147直木三十五賞受賞 辻村美月』
・・・って、字が違う!
しんにょうの点にこだわるよりも、まず誤字に気を付けないと!
木を見て森を見ずとはこのことだね!!
(本文終了)
どうです?
なかなか小粋な「木を見て森を見ず」なエピソードだったのではないでしょうか。
え?
あっちやこっちにフラフラ話が逸れて要旨が理解できにくくなっているこの文章も、結構「木を見て森を見ず」だ、ですって?
HAHAHA!あなた面白いこと言いますね。
おっと、名残惜しいですがお時間が来てしまいました。
それでは、また来週をお楽しみに。
(本日の記事、終了)
追記:「木を見て森を見ず」より「画龍点睛を欠く」の方がいいかも、と更新後に気付くが、まあいいや。