68冊目
「黎明に叛くもの」
宇月原晴明
元亀二年(1571年)晩秋、近江坂本城主の明智光秀とその腹心・斎藤利三は、大和国は信貴山城に訪れていた。
比叡山延暦寺焼き討ちの功により、比叡山に睨みを利かせる意味も込めて坂本の地を拝領した光秀だったが、延暦寺ゆかりの者たちの仕業と思われる呪詛に悩まされていたのだ。
その呪詛を防ぐ方法を訊ねるのに最も適した人物がこの城に居る。
主家である三好家を乗っ取り、時の将軍足利義輝を弑虐し、東大寺を大仏もろとも灰にした当代随一の梟雄。
そしてその所業を許せぬ者たちからの数多の呪詛を受けながら、その全てを何食わぬ顔で受け流す男。
松永弾正少弼久秀である。
時を半世紀近く遡った大永二年(1522年)初夏。
ペルシア伝来の暗殺術『波山の法』を駆使し刺客を生業としていた二人の稚児、法蓮坊と玉蓮坊が、師を殺して自由の身となった。
二人は京の街を一望できる岩の上で、互いに天下を目指し、最終的には天下を二分して雌雄を決すことを誓い合う。
のしあがる為に二人が選んだのは『都にほど近く、豊かで、強兵を持つ』国。
法蓮坊は松波庄五郎と名乗り美濃国へ、玉蓮坊は松永久七郎と名乗り阿波国へとそれぞれ向かった。
この二人の稚児が、後の斎藤道三と松永久秀である。
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注:この物語はだいたい実際の歴史通りに進んでいきます。
なので、歴史的事実に関してはネタバレの範疇に入っていないとの判断で下記の感想を書いています。
それでもネタバレには違いないので知りたくない、という方は読まないことをおすすめします。
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道三と久秀が幼い頃から苦楽を共にした義兄弟だった、という突飛な設定ですが、それに反して物語はほとんど史実通りに粛々と進んでいくのだということが読んでるうちに分かってきます。
けれど、史実通りということはすなわち、道三にとっても久秀にとっても悲しい結末を迎えるということでもあるわけで。
そんな雰囲気の中で淡々と進んでいく物語が切ないです。
この物語に頻繁に出てくる象徴的な言葉が『日輪』です。
若き久秀や道三は「我こそが日輪だ」と信じ、懸命に高みを目指すのですが、中々思うようにいきません。
ふと気がつけば、それなりの地位にはいるものの、もう若いとは言えない年齢に達してしまった自分。そんな自らの衰えに反比例するかの如く頭角を表し始めた正真正銘の『日輪』織田信長。
その眩さに感服した道三は、娘・帰蝶を嫁に遣り、跡継ぎ息子の龍興を差し置いて信長に美濃を、そして自らの夢をも託そうとします。
一方、久秀は自分より遥かに若い信長を認めることがどうしてもできず、道三に反発します。
それはただ信長が若輩者だという理由だけではなく、共に『日輪』となることを誓った道三の目が自分に向かないことに対しての嫉妬心から来ていることが明白で、とても痛々しい姿でした。
そして、道三の死。
自分は『日輪』たり得ない。
そう気づいた久秀が選んだのは『黎明に叛くもの』になる道でした。
夜明け前に輝く金星『明けの明星』の如く、昇り来て世界を明るく照らす太陽に勝ち目のない勝負を挑む従花に。
そこからの久秀は時に信長に従い、時に信長を裏切りながらも精力的に活動するのですが、それはあくまでも久秀の都合。
実父信秀と義父道三を既に亡くしている信長は、道三と近しい雰囲気を持つ久秀を、まるで三人目の父親であるかのように扱います。
そのすれ違いがもう、なんとも言えません。
飄々として本心を見せない久秀ですが、この時きっと揺れていたんだろうな、なんて思ってしまうとねぇ。
そして、歴史通りのラストシーン。
起こることは分かっているのに、いや分かっているからこそなのか、感動しました。
とても面白かったです。
歴史を大幅に歪めて違う結末にする歴史伝奇小説も嫌いではないですが、歴史を歪めず行間を想像力と発想力で補って料理するスタイルの小説がかなり好みなので評価として若干偏っているかもしれませんが、個人的には大満足でした。
宇月原さんの他の小説も是非読んでみたいです。
ただ、今は未読本が山のように溜まっているので、まあ後々ぼちぼちと読んでいこうかなぁ。