重い話になりますが…この時期になると毎年思い出して後悔することがあります…


中学一年生の時


当時購読していた雑誌にペンパル募集のコーナーがありました


そこで淡路島に住むAちゃんと知り合いました


大阪で生まれ育って


当時大阪に住んでいたわたしは


大阪から行く旅行といえば


白浜か伊勢か淡路島かのローテーション…な淡路島で


淡路島は物心つく前からよく行っていた馴染みの場所でした


そこに住んでいる同じ職業を目指すAちゃんを見つけて手紙を送って(当時、雑誌に普通に住所が掲載されていたと思う)


同じ将来の夢に意気投合して


一緒に頑張って勉強しようと励ましあいました


隣の県だったけどあの頃はまだ明石海峡大橋ができる前で


会うにはフェリーに乗らなければならなくて


馴染みの場所ではあれど


中学生にとっては外国と同じような距離感でした


そんな距離感でせっせせっせと手紙のやりとりをして


たまには電話で話しながら


日々を過ごしているところにあの地震が来ました


Aちゃんとはしばらく連絡が取れませんでした


何度も電話は不通で手紙も書いたけど


音沙汰がなかった


でも無事を確認する手段がなかった


だいぶ経って


Aちゃんから手紙がきました


Aちゃんが生きていたことが嬉しくてたまらなかった


だけどAちゃんの家族とAちゃんの中学のクラスメイトが何人も亡くなっていました


Aちゃんの家は全壊して


避難所や仮設住宅で住んでいたようでした


新しく建てた家にうつるタイミングで


生活が落ち着いたからと


連絡をしてきてくれたのです


すごく嬉しかった


だけどそれからの手紙は


家族の死や同級生の死


全壊した家のことや避難所の生活


震災関連の苦しみについてばかりになりました


大人になった今では


Aちゃんの気持ちはわかるし


今の娘より幼い中学生がそんな経験をして


本当につらかっただろうし


つらい思いを共感してほしかったんだと思う


おそらく…家族やまわりの人に言えない気持ちを


離れた生活圏にいるわたしに打ち明けたかったんだと思う


でもまだ子どもだったわたしには受け止めきれなくて


だんだんしんどくなってしまって


連絡を絶ってしまった…


成人してから業界誌でAちゃんを見つけて


夢をかなえて元気に働いていることを知って


それから何年かしてその病院の住所に手紙を出したけど


返事が来ることはありませんでした…


この時期になると


Aちゃんに申し訳ないことをした後悔でいっぱいになります