頑張る日本人:雅子平野ホルコム

    

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‘やるだけやれば、結果は後からついてくる’

 (電話インタビューだったにもかかわらず、共に涙した雅子さんとの会話は、今でも心に温かく刻まれています。~Yodaの孫娘)

 

   辛いことがある度に思い出したこの‘やるだけやれば・・・’は、高校の時の体育の先生から頂いた永遠なる励ましの言葉。1年間体育ができなかった程の重度の貧血症に最初に気づいてくれた、心身共に救ってくれたかけがえのない恩師。‘結果は後からついてくる’、そう信じて歩み続ける雅子さんの人生は、兵庫県高砂市の大自然から始まった

   3姉妹の真ん中で、周りが山や畑に囲まれた田舎育ちの雅子さんにとっては、レンゲ摘みからフナやカブトガニ取りなど、自然が遊び相手だった。大好きな祖母と蓮の実をとりに行ったり、取ってきたつくしを母に料理してもらったり。

 

 

当たり前の生活の中で

   塾に通う姉の後姿を追うように小学生の時から塾に通った雅子さん。その頃から特に英語は好きだった。泳げないからと水泳教室にも通わされ、小学校の水泳部では大会に出場するまでに。中学校では姉のいる吹奏楽部へ入部。姉のやることは自分もやるのだと感じていたものの、木管楽器のサックスを演奏する姉とは違う金管楽器を選んだ。“ここでささやかな反抗があったのかも~”と笑う雅子さん。毎日の朝練と放課後の練習に加え、先輩後輩の上下関係はとても厳しく、これが礼儀作法や人の考えを読む訓練になったようだ。入部当初は上下関係の厳しさに悩まされたが、持つべきものは姉。彼女の存在に救われた。

 

恥ずかしがりから始まって~

   幼少時代は、知らない人が来るといつも父の後ろに隠れているような恥ずかしがりの性格が、中学の時から徐々に自立心が芽生え、吹奏楽部の副部長や生徒会の保健副委員長を務めた。自分がしっかりして人助けをしたいとの願いがあったからだ。中学の頃は当時流行っていたペンパルに興味もあり、ニューヨークの女の子と文通も始めた。この英語での文通が英語上達への意欲を駆り立て、徐々に渡米への夢へとつながってゆく。

 

 

色々な想い

   電車通学だった高校時代は、勉強よりも電車の中での人間観察が一番記憶に残っているという雅子さん。英語に加えスペイン語も学んだ。外国語には常に興味があり、アメリカのテレビ番組も彼女の渡米の夢に拍車をかけた。そうなると、残るは留学を反対する両親の説得。田舎ならばと、渋々了承してくれた両親。日本に近くて英語のアクセントが少なく親が安心出来る地・・・調べた結果はアイダホ州。手続き全てを自分で行い、さあ渡米!だが、まずは国内玄関口成田空港へ向かわなければならない。数多くの乗り継ぎを経て成田に到着した頃には逆に我が家が恋しくなり、何度も引き返そうかと思った。自分の夢と熱意の結果にも関わらずとめどなく押し寄せる切ない気持ちを手紙にしたため、両親宛に手紙を送った。自分の気持ちにも封をして。

 

涙と努力の結果

   緊迫感、悲しみと夢の混じった思いを抱えた長旅の疲労からだろう、到着した途端に熱を出した。夢と現実は裏腹で、喜びよりも英語の能力不足感じ、アメリカ生活はネガティブなスタートを切った。ステイ先から見えるルイストンの丘の頭上を飛ぶ飛行機。毎日その山を眺めては、眼前を去る飛行機に乗って日本へ帰りたいと幾度も涙した。そんな雅子さんを救ってくれたのはとても優しいホストマザーや友達と大学の先生だった。言葉のハンディに負けないために、現地の人の何倍もの努力を積んだ。語学力で学問のレベルに差がつくことに納得ができなかったからだ。留学生活を全面的に援助してくれた両親のおかげで、幸い学問に集中することも出来たが、たまたま取ったゴルフのクラスで先生にゴルフクラブへの入部を勧められ、大学3年の1年間、毎週ゴルフで出掛けたり遠征試合に参加した。しかし、大変だった勉強と部活の両立の努力が報われ、専攻Business Administration、副専攻SpanishDean’s Listに載ってHonor Society所属で卒業するという大挙。

 

第6感と夢

   大学時代の良き思い出の一つは、中学時代からのペンパルと初顔合わせが叶ったこと。NYのペンパル友人宅でホームステイし、懐かしくも新鮮な時を過ごした。逆に辛い思い出もある。ある日、行き先のスキー場で突然理由もなく涙が出てきた。不思議に思って帰宅しテレビを見て驚いた。実家のある兵庫県は神戸大震災で大惨事となっていたからだ。直ぐに実家と連絡が取れずに心配したが、不幸中の幸い家族は無事だった。しかし、家族を含め多くの人々の叫びが遠く離れた雅子さんに届き涙となって表れたことには、彼女の日本や家族への強い愛情が、エネルギーの波動で感知された敏感な感性に感動を覚える。雅子さんの感性の強さは夢にも反映されるようで、小学校の時からアメリカで仕事をする夢を何度となく見ていたという。現実との違いは、高層ビルでハイヒールを履いて働く自分の姿。更に、中学時代からアフリカで日本の童謡を教える自分の夢を何度も見続けた。実は、2003年からエチオピアの女の子の里親としてアメリカから支援している。家を建てたらアフリカの子供を助けたいと願い続け、現在は3歳の女の子を2人目の里子として支援続ける。独り立ちしていった最初の里娘の成長を喜ぶと共に、彼女の送ってくれた手紙が大切な宝物になった。現在は幼いエチオピアの里子から送られてくる絵が楽しみで、彼女から元気をもらうのだそうだ。

   

 

安心を与える仕事

  ところで、初めての仕事は主に日本からの海外旅行保険保持者への事故処理と24時間対応のヘルプライン。人々の大切な人生、時には生命に関わる仕事柄、眠い時も必死に対応した。そして初めてのお給料で日本の両親に花を贈った。私も個人的に海外旅行ヘルプラインで助けられた経験があり、朝方2時頃不安な時に、日本語で誰かが助けてくれるというのは言葉では表せない安堵がある。保険会社のファーマーズを経て、苦労して立ち上げてきた独立会社MHHは我が子のように大切で‘家族と保険事務所は私の命’と雅子さん。趣味は仕事!と笑いながら“仕事バカで旅行もなかなか行けないけれども、事故に遭われたりした方の事を考えると自分の状況は大したことないし少しでも役に立ちたいです。誠心誠意で尽くせば心は通じると信じています。”と雅子さん。

 

大きな両親の愛に包まれて

  雨が降っても、傘を持ってきてくれていた母はいない、遅刻しそうでも誰も車で送ってくれない、当たりたくても当たる親がいない・・・両親の元でどれ程何不自由なく過ごしてきたことか・・・雨に打たれながら心もずぶ濡れ、泣きながら歩く道すがら独りぼっちを感じた時に両親の無条件の愛を感じた。また結婚後、子供に恵まれず、不妊治療について相談した母が一緒になって泣いてくれた。毎日受けた治療や注射で膨れ上がった腕や腰をさすってくれた母。苦しむ娘にずっと寄り添ってくれた母と、小さなことでも一人で出来るようになったことに対して嬉しい言葉をかけてくれる父の存在は、雅子さんにとってかけがえなき存在。日本での体外受精で、現在2人の子供に恵まれ、孫と1日でも多くの時間を過ごし楽しい思い出を作ってほしいと切に願う。なんでも相談事を話せる両親の喜びが自分の喜びに代わる彼女は、深い愛に支えられたからこそ、自分のやる気が培われ、惜しまぬ努力を注げる根気も養われたと感じている。

 

忙しくても…安堵のために

   今では仕事と子育ての両立に悪戦苦闘しながらも、しょっちゅう学校のボランティア活動に出掛ける。また、子供の日本語教育のためにと、コンピューターで仕事をしながら日本語フラッシュカードを振りかざす母親ぶり。お客様のために、家族のために、如何に時間を使えるか常に試行錯誤しているのだ。“じゃ~また頑張るわ~って母に言うと、もう頑張らんでいい!って言われます”と雅子さん。たま~に行く打ちっぱなしのドライバーはやっぱり気持ちいい。それでそれ以上にお客様の安堵が彼女を癒してゆく。自分に関わる全ての人が幸せになりますように・・・きっと雅子さんの根底にあるものは、そんな広いぬくもりですべてを包む優しさなのだと感じさせられた。そして、このような娘に育てた彼女の両親を思わずにはいられない。

 

2016年 インタビュー