Aaron Walker:Audio/Video & Event Producer

 

 

   楽器や道具を分解して組み立て直す作業が好きだったAaron少年。特にワイヤーやケーブルのあるシンセサイザーが大好きで、地元店Lake Musicを訪れては、その大きな機器を眺め聞き惚れていた。父親がコンピューター・テクノロジー関係の仕事柄、一般家庭に普及する前からビデオやコンピューターに囲まれ育った。そんなハイテク環境に準ずる本人の興味と親のサポートが彼の人生を方向付けていった。NWフィルムセンターのサマーキャンプに参加し、8ミリカメラで初めて自分のフィルムを作成したのは7歳。第2作目の音響入りボートの旅は、その1部が地元テレビ局で紹介された。その時メディアの力を実感したと言う。人生の幕開けもダイナミックだが、その先もますますダイナミックになってゆく。

 

 

 

9歳のBMXライダー

 

   自転車とそのメカニズムが好きで、プロのバイクレーサー:BMXとして活動を始めたのは9才の頃。毎週このレースのためだけに遠出する両親の出費や時間を考えた時、スポンサーが必要だと思いついた。早速自宅Lake Oswegoにあった自転車ブレーキパッド専門店へ出向き、即席売り込み開始。自力で店舗からスポンサーを獲得!州外遠征にも何度も出かけ,棚は無数のトロフィーで溢れていった。

 

 

 

僕はだるま!学んだ様々な力

 

   優勝/準優勝で稼いだ100/50ドルは子供にとって大金。だからこの時ビジネスについて真剣に考えたのだとAaron。又、お願いすることで生まれる力、人とのつながりの大切さ、ベストを尽くすこと、転んでも達磨の如く何度でも起き上がればチャンスがある事を学んだ。この経験から得た学びは今も自分の中に生きている。13歳の頃事故に遭いBMXを引退。好きな音楽に集中するため一切他の習い事を辞めるような自主性が長けていた息子に対し、何でもサポートしてくれた両親。その両親に欲を言うなら・・・・例えば、「ドラムの素質があるからとあまり練習をしなかった息子をもっと戒め強く押して欲しかった…」

           

 

 

今でも残る教師の影響

 

   小学4年生の担任は学校のパイプオルガン演奏者で、彼に多大な影響を与えた。世界中旅して学んだ知識を持つ先生は、クラス全員でのパイプオイルガン作りにより音の物理を教えてくれた。古い掃除機のパイプを使った手作りだ。クラスで高低音の周波数をデモし、音のテクノロジーも教えてくれた。そんな先生の自宅は自作のパイプオルガンで埋め尽くされていたという。

 

 

MTVが広げた世界とは?

 

1980年代放映され始めたビデオと音楽が1つのMTVは、音楽・録画・テクノロジー好きの彼を夢中にさせた。高校以前はロックミュージックばかり聞いていたが、バンドの先生が音楽の世界を広げてくれた。又、両親の買ってくれたホーム・レコーディング・システムで作曲・録音。この情熱と腕の良さが口コミで広がりイベントなどの録音・録画受注の仕事もやって来た。1986年頃には友人とコンピューターで音楽を作りバンドも構成。学内イベントでは演奏以外に音響、ビデオ録画からステージ・セットまで任された。学校で所属したマーチング・ジャズバンドと聖歌隊から自分のバンド’Popsicle’のメンバーも招かれ、86年にはカナダ・バンクーバーのEXPOで演奏。サンフランシスコにもツアーした。

 

 

 

TV番組のディレクター・・・いや、ぜ~んぶ!

 

実は16歳から大学入学までKBOO FMケーブル・ラジオ放送にて、自作の音楽を流していたAaron。ポートランドのクラブなどでも彼の曲が流れていたという。又、現PCM (Portland Community Media、元PCA: Portland Community  Access)にて自らTV番組を製作し放映していた。その名は’Club Portland’ 。音楽を中心とした10代向けダンス番組だ。ここでも2つのスポンサーを獲得。コンサートに来た著名音楽家をインタビューして自分の番組で放映した。製作・監督に留まらずバンドのドラマー/シンガー/作曲家は番組にも出演。1988年にはK 2ニュースで取り上げられた。学問もそこそこに眠る間も惜しむ息子の姿を懸念し 宿題が済まなければスタジオ入りできないように とスタジオへ願い出た両親。スタジオ側も作戦を計らいAaronの入場を断った事も。それを知ったのは成人してからだったと笑うAaron。高校最後の年には、オレゴン州のバンドにパーカッション演奏者として選ばれ、オレゴン・シンフォニーや有名Jazz演奏家と共演したり、多くのツアーに出掛けた。

 

 

 新しい知識を求めて

 

            University Of Oregon から音楽の奨学金が出たが、目指す道ではなかったため断った。他の奨学金はないものかと思案していた所、フランク・フッド奨学金を授与された。フッド氏はポートランドの独立映画制作者のパイオニアなる存在。TCF (Telecommunications and Film) 専攻で大学入学したが、ここで初めて人生の壁にぶち当たった。というのも大学1年の専門講義は既に学んだものばかり。人生が足踏み状態となり悶々とした日々が過ぎていった。2年目学部へ相談すると、TA(アシスタント)になることを勧められ1学期勤めた。が、受けられないクラスのTAをする矛盾に耐えられず学部長へ直談。チャレンジ・テストを受ける許可をもらい、見事34年生レベルをパスした。その後、選抜生徒による学校のビデオ製作の仕事に雇われた。ここで創作エネルギーを発散することが出来たが、大学だけでは物足りず校外講義に多々参加した。その他DJをしたり、エアロビクスやダンス・クラスなどの専用音楽集を製作した。そして音楽が変化し始めた90年代初期にはヨーロッパの旅へ。結局大学で学んだ大切な事は小学生の時と同様に 誰を知っているか だった・・・と苦笑する。    

      

 後編へ続く・・・

 

インタビュー2004年