頑張る日本人: バレリーナ の 飯野有夏 さん

 

まさにテレビで見るように細くしなやかな体つきで、練習に励むバレリーナ達。その真ん中で、一層軽やかに笑顔を交えステップを踏む有夏さん。彼女はオレゴンバレーのプリンシパル・ダンサー:日本語で言うところのプリマドンナだ。“自分の体はバレー向きじゃないから…”と言う有夏さんに対し、‘それなら一体誰が?あなたはまさにバレリーナの代表!’と私は思うのだから、現実はよっぽどきつそうだ。

 

 

 

美しさだけではダメ

 

きついのは何よりも練習とそれに伴う痛み。どんな苦労をしているのかは忘れられがちな、華やかな眼前の世界の裏舞台。美と心身の苦しみが対照的な芸術バレエの世界。芸術とは美なるものを追求するものだが、それだけではなくバレエの世界は体力、肉体的柔軟性、クラシック音楽や古典文学の認識、リズム感、踊りのセンス、そして人前でパフォーマンスする緊張に打ち勝つ精神力といったものが必要になるのではないだろうか。私はそのバレエの世界が踊り手に要求する多大さに、芸術の深さを感じずにはいられない。

           

 

 

 

母の時間を取っちゃって・・・

 

テレビの前で踊っている4歳の娘の姿を見た母親は、娘有夏さんををバレエのお稽古へと連れて行った。幼稚園の頃から有夏さんの夢はバレリーナ。そのまま夢へとまっしぐらに向かって進むこととなった最初のきっかけは、母親の思いと行動だった。本人の夢と、娘の才能を見抜く母の目が有夏さんの将来を作り、まさしく有夏さんはバレリーナになるべくして生まれてきた事に相違ない。自分にとって‘運命’と言えども容易な道のりではないことはいうまでもないだろう。こうして4歳の頃から地元でバレエを習い始めることになり、後、隣町にあった山本禮子バレエ研究所に入所。それから送り迎えは母の仕事となった。当時を振り返り有夏さんは“本当に姉、兄にも申し訳なかったなと思うんですよね。母の時間を全部自分が取っちゃって… ”

 

 

 

厳しさの中のぬくもりと目標

 

3頃から稽古は毎日続き、中学からはバレエ団の寮に入り高校卒業まで、土日の休みもなく稽古に励んだ。建物の4階が寮で23階が稽古場。夏は1週間、冬はお正月の3が日休みをもらっただけ。日々の練習は放課後6時くらいから、遅い時は朝の3時まであったこともあるのだとか。そして5年半続いた寮生活。その間差し入れは禁止だったのだが、比較的近くに住んでいた有夏さんの家族。母は、時々自転車置き場の自転車のかごの中へ、そっと差し入れを忍ばせておいたという。その母の心にどれ程有夏さんが支えられた事か…。そして、夢を現実への大きな目標にした中村かおるさんとの出会い。中村さんは同じ群馬出身で現在シアトル、パシフィックNWバレエ団のプリンシパルバレリーナ。稽古場のドアの隙間から垣間見た中村さんの踊る姿を見て‘彼女のようになりたい’と思いを馳せた。家族のサポート、励みとなる目標、そして個人の努力と負けない忍耐力。物事を成すに大事なものを有夏さんはしっかり掴み、着実にバレリーナへの道を歩んでいた。

           

 

 

 

つきまとうのは痛みと故障

 

初めてトウシューズを履いたのは67歳の頃。噂の如くつま先には激痛が走り、慣れるのにもかなり時間を要するトウシューズは、厄介物な必需品。先輩の履き方を真似して痛くないように工夫した。自ら名案!と割れ物包装用のプチプチビニールをシューズ先に入れてみたこともある、が無念の結果に終わった事も。今でも、一週間の休暇の後トウシューズを履くと痛みに慣れるのに時間が掛かるというぐらい、慣れるものではないのだそうだ。こうして小さい頃から常に痛みと戦ってきた。体の故障など珍しいものではなく、例えば2001年、山本禮子バレエ団で自分のために振り付けされた‘火の鳥’では本番10日前に捻挫してしまった。無理を承知で頼み込み5回の内1度だけ舞台に立たせてもらった。公演中痛みには全く気づかなかったものの、その後の完治には時間を要した。だからこそ、その時の経験で決して無理はいけないものだと学ばされた。

           

 

 

 

重ねる経験と受賞、それでもまだ足りぬ・・・

 

小学3年の時初めて日本のコンクールに出場。小学5年で日本のバレエ団の一員として中国へ。これは有夏さん初めての海外遠征。埼玉全国舞踊コンクール1位、全国舞踊大会1位、文部大臣賞受賞、アジア パシフィックコンクールジュニア部3位、ヴァルナ国際バレエコンクールジュニア部1位を獲得した実績をもち、13歳の時カンヌで2週間、アフリカンダンスなどの多民族ダンスフォームなどを含んだセミナーに参加。15歳、スイスのローザンヌ大会、18歳、ブルガリアの大会に出場。高校卒業後オーディションを受ける勇気が湧かず、アメリカへ渡る前の3年間日本でダンサーとして成功できないものかと頑張ってきた。しかし日本での現実は厳しく、踊る機会の少なさに加え、自分で必要品一切を揃えなければならない金銭面の苦しさもあった。それでダンスを教えるアルバイトをするのだったが、有夏さん曰く“教えるにも、経験がなければ駄目だと思いました。”

 

 

 

 

憧れの先輩とオレゴンとのご縁

 

そして2003年セミナー受講とオーディションのためNYへ。ワシントンとピッツバーグバレー団へのオーディションの機会にも恵まれた。サンフランシスコでも、SFバレー団、丁度オレンジカウンティーに居たボストンバレー団でもオーディションを受けた。体つきなど色々な理由で断られた事もあったが、あの憧れで先輩の中村かおりさんの勧めでポートランドに来る事になり、3ヶ月のレッスンが許可された。後、有夏さんの素晴らしさがアートディレクターの目に留まり1年の契約が結ばれた。それに際しては、当時ままならない英語力をサポートし契約交渉してくれたのが中村かおりさんだった。以来オレゴンバレーでの契約ダンサーになり今年で7年目。

           

 

 

 

英語と渡米への想い

 

小学34年の時からレッスンに通い始めた英語は、厳しいバレエの稽古よりも楽しく好きだったという。そもそもアメリカへ渡りたいと思ったのは小学4,5年生の時に振り付け師ジョージ バランシンの‘タランティン’に見せられ、彼の振り付けを踊りたいと願ったこと。日常生活で慣れていった英語とアメリカ生活。英語になれることに必死で、“日本人とも日本語を話そうとしなかったから、最初はきつい人って思われたみたいです!”と笑顔の有夏さんだが、この学びに対する生半可ではない姿勢をとってみても、彼女はバレエだけではなく何事にも必死に‘頑張る日本人’なのだ。気さくで謙遜深く、温もりを帯びた有夏さんの人柄が、なお一層プリマドンナとしての彼女を光らせているのだろうと思う。

 

 

 インタビュー2010