頑張る日本人:元プロレスラー マティ鈴木氏

                   (本名:鈴木 勝義) 

 

男にロマン、女に愛、人生に楽しみ、喜びを! 

 

 

 

 

時代は焼夷弾が舞い散る命儚き時。第二次世界大戦真っ只中、6歳の勝義少年は東京の大空襲を潜り抜け命懸けで生きていた。祖父はMP(憲兵)父は戦争出兵で面影も無く、母の手一つで育てられた。出身地である世田谷区三軒茶屋、今の昭和女子大周辺は、13機影連隊駐留地だったため米戦闘機B-25の標的となり、雨やあられのミサイル攻撃を集中的に受けた。壊れて繰り返す映像の如く犠牲者達を目撃した子供時代。ある日母と歩いていた道すがら艦載機に狙われ、地面に倒れ伏せる自分の真横を銃弾が走るのを体感した。しかし同じように2度狙われ2度とも命拾いした勝義少年の何かに守られていたような命…。それは今でも痛烈にくっきり記憶残っている。

 

 

 

 ミサイルの雨の後

 

 

遂に迎えた終戦後の東京では、今の新宿伊勢丹地下で週3回程雑炊の配給があり、三軒茶屋から鍋下げ歩いてもらいに行った。くすぶる煙が上がる中、爆弾や焼夷弾で負傷した人々、爆破され飛び散った体を横目に、目も心も置き場が無い焼け野原を進む少年は既に10歳になっていた。 “今、こんな顔してしゃべってるけど本当に波乱万丈で…寿命があったんだなー”と笑うマティさんの記憶の泉から湧き上がる数々の思いに、私もすっかり浸っていった。

 

 

 

 

次の道を開くのは、きっと今の一途な夢

 

野球少年だった三軒茶屋中学時代、ポジションはピッチャー。目指すは野球名門東京の日大三校だったが、家庭の事情で2年程他人のお世話になったのだと。その間牛乳配達で高校の入学金と学費を稼いだ。そして野球の強かった荏原高校入学(今の日体荏原高校)。神宮球場で早稲田実業との甲子園行きを懸けた決勝戦を迎えた。ところが相手のピッチャーは後の‘世界の王’若き王貞治氏。ピッチャーのマティさんはベンチ入り出来なかったものの、甲子園行きを逃した悔しさを‘あれも運命だったねー’と笑いながら思い返す今。その後プロ野球選手目指し‘東映フライヤーズ’でプロテストを受けた。ベースランニング、遠投共OKだったが“ピッチングボールがショートしてそれで落ちちゃったよ!ピッチャー希望で受けたからね~”と笑う。プロへの夢はショートボールと共に消えてしまったが、プロになっていたら今のマティさんは存在しないし、失敗は違う道での成功を導くものだと立証してくれたと思う。終わりこそ始まりだ!と。

 

 

 

 

日本初のボディ―ビル協会・会員 第20番!

 

高校時代、一人際立ち体格抜群 憧れの的がいた。その番長は、力道山道場に通って体を鍛えているとの噂。日本は丁度三菱TV がプロレスの映像で流行り始め、日本中が老若男女問わず街頭に立ちお祭り騒ぎでプロレス中継を見ていた時代。東京の高校野球でも名高いピッチャーヒロ先輩の‘プロレスラーになりたい’との言葉を聞いても、そんなこと本人にとっては夢のような話だった。そんな時、筋肉美の光る米映画‘ヘラクレス’が流行り渋谷に初の日本ボディービル協会が誕生。情報入手後、速攻駆けつ20番目の会員になったマティさんは、早稲田アマチュアレスリングのチャンピオン平松氏をコーチに、東映映画の3羽がらす菅原文太も共にトレーニングした。その努力は関西ボディービルコンテストでの3位獲得に現れる。

 

 

 

 

力道山道場 練習・第1期生

 

またある時オープン後間もない力道山ジムへ、たまたまボディービル練習生として伺うと、力道山野球チームに勧誘され、本来ピッチャーのところキャッチャーでチーム入り。今では有名人の張本勲氏や金田正一氏らとも一緒に練習したそうだ。そんなある日、力道山からプロレスラーへの誘いがきた。“体が小さかったし、体重も足りなくてね。でもボディービルで作った体があったから…いいね!と思った”と本人。しかし、誘いを嬉しく受けた理由はTVスターが目的ではない。映画‘幌馬車’のカウボーイ映画などを見て、遥か雄大で電信柱も無いんじゃないかと思わされるアメリカに心が魅了されたのだと。しかし貧しい家庭ゆえ、途中給油して飛行するアメリカ行きなんて夢のまた夢。プロレスラーになったらアメリカへ行けるかもしれない!との夢が現実へと近づいた瞬間だった。こうして(力士を除いては)力道山道場の練習生第1期生となった。

 

 

 

 

プロレスから集金まで

 

ところで、力道山から‘牛乳屋’との愛称で呼ばれていたマティさんは、牛乳配達14年間皆勤という驚異的記録保持者!ちなみに高校時代、ふとんの西川産業野球チームでピッチャーのバイトや、渋谷東急百貨店でのエレベーターボーイの経験があるというから驚きだ。上へ参ります!と、担当最初のエレベーターに東急グループ創始者の五島慶太氏が乗ってきたことは‘凄い人に出会った最初の経験だった’と語る。その上“君、いくつか?その精悍な(体格)…俺と取り替えるか?”と言われたことは鮮烈な記憶。ボディービル仕込みで詰襟に吊り上り肩の構えは、老齢の五島氏には若さと強さの象徴として印象的だったのだろう。マティさんは‘若いっていいんだな~’と思ったそうだ。その精悍な体を生かし、リング名、‘Mr.すずき’で日本プロレスリング生活が始まった。ジャイアント馬場、マンモス鈴木、アントニオ猪木などの先輩レスラーとして興行すると同時に、日本プロレス協会の中堅の役割も担った。“当時は高卒少なくて、おもしろいこんな性格だし、地域興行の集金周りにも適役だったんだね~”と二刀流の時代をこう振り返る。更に、TV のゴールデンタイムはプロレスの時代。アナウンサーの徳光さんや倉持さんに、プロレス解説を教えたのもマティさんなのだ。

 

 

 

 

持ってかれたマクドナルド日本進出!?

 

力道山が他界後はプロレス界の新しい幕開けとなり、日本オリンピックの八田一郎先生を後ろ盾に早稲田レスリング出身吉原さん、米で有名レスラーになった高校時代からの先輩ヒロマツダさん、マティさんで国際プロレスを立ち上げた。又、新日本プロレスを引き取り、後々の世話や、青山共栄ビル屋上で始めた‘青空道場’練習生のコーチとして日々奔走した。こうして様々に従事する中ヒロさんから渡米の誘いがやって来て、渡米が決定する。日本出発前、身元引受人となってくれた八田先生と共に、コミッショナーの川島正次郎副総裁の元へ挨拶に出向いた。すると川島氏は“体が小さいねー、でも君は商人だよ!商売しなさいよー”と渡米前のレスラーに衝撃的な一言を浴びせた。面食らったマティさんだが、実に、米到着後マクドナルドのハンバーガーを初めて食べて彼の思ったことは‘これは日本に持ってったら凄く受けるぞ!’だ。発想は先だったのに、2年後藤田げんさんに持ってかれちゃって!と舌打ちするところは商人そのもの。川島氏は商人肌のレスラーを見抜いていたようだ。勿論それは最も強烈な言葉の1つとして今に生きているそうだ。

 

 

 

 

 思わぬオファーと大きな決断

 

 

1967年、新人坂口選手の付き添いとして渡米。クリスマスイブ、フロリダのタンパからアメリカン生活は始まった。観光ビザ滞在中はマスクをしての興行だったが、その後誘いを受けて向ったオクラホマで思いがけない事が起こった。ネバダ州で労働ビザ申請時に先方からグリーンカードを勧められたのだ。実は本人グリーンカードの存在さえ知らなかったという。東京TVが待ってるが…オクラホマでの大成功もある…と、出した結論は‘ここに居なさいよ!’と言わんばかりの流れに従いアメリカの大地に腰を下ろすこと。結果、Jr.ヘビー級のNWAワールドタイトルを勝ち取り、4年半継続でチャンピオンベルト保持者となった。同じ地域での興行は観客に飽きられるため、1年が寿命と言われるプロレスの世界。自分の例は稀なことだったと言う。“当時のプロレスは今とは違ってまともに60分動くし、自分は小さいし、頑張り抜いて勝ち取ってきたタイトルだったんだ”と噛み締める思い出。心身共に体当たりしたプロレス時代の回想から、一入ならぬ栄光が伝わってきた。約2年のオクラホマ生活では、興行のために毎週30003500マイル、ドクターストップが掛かるまで運転した。その後、ノースキャロライナへ越し、周辺の州での興行が続く。

 

 

 

求め、掴み、放す:直感が教える人生のタイミング

 

オレゴンのプロモーターから誘われ、アメリカの地を踏み何年ぶりかに見る太平洋。米あり、豆腐あり、寿司ありの西海岸ポートランドと日本食に大感激。日本人では珍しい正義役をもらいトップの座へ就いた。そしてノースキャロライナからの誘いを期に‘子供も大きくなってきたし家も購入したし、じゃ、そろそろ…’とプロレス人生にあっさり終止符を打ったのだ。なんとも潔い引き際!人生の転換期毎にやって来る船を見逃すことなく乗船し進むが如き彼の人生模様は、求め、掴み、放すタイミングを魂の言葉に従う直感と人の感情の調和として感じさせられる。“何しろ$100持参で始まったアメリカの生活、何も無くて当然だった訳だし”と言えて実行出来る理由は、初心忘るべからずの精神が心中生き続けているからに違いない。

 

 

 

 

慕われ、慕い、思い出に・・・

 

長らく避けていた報道陣やジャイアント馬場さんまでもがポートランドへ追っかけて来た理由が私なりに理解出来た気がした。けれども艶やかな舞台裏のマティさんの人生は、各駅停車に揺られ、各駅を訪れる様に聞かなければ、その全てはとても伝えきれない。‘先輩のように歩いていきたい’と言った秘蔵っ子のジャンボ鶴田さんのアメリカ生活の手配を整えたこともあったそうだが、今では日本で行われるファンクラブの会に出席したりすることが唯一プロレスとの接点の様子。ファンの方々から頂いた昔の写真:黒人の神様と言われたヘビー級ボクサーのジョールイス(ノースキャロライナ時代スペシャルレフリーをしてくれた友人)との思い出ショットなども大切な接点になっている。ところでマティの名の由来は明治時代渡米した柔道家マティ・マツダだ。オクラホマのプロモーターが名付け親で、先輩ヒロマツダさんと半分ずつもらった名なのだ。

 

 

 

 

惚れたら惚れられた

 

ウール製品のペンデルトンアジア部門取締役を退き、社員として貢献している現在だが、何故ペンデルトンなのかと尋ねると、オーナーの‘Mr. Mort Bishop Jr.の全てに惚れたから’と予想外の返答。それに輪を掛け驚かされたことは、電話で自分の思いをアピールし続けること2年。‘日本のマーケットには興味ない、あなたの英語は解らない’と散々NO!と断られ続けた結果遂に努力が実ったこと。成功したいとの野望ではなく、むしろ起業家ではない自分に出来た事は、アメリカの歴史と企業という社会の中に入り込み、アメリカ人の日本への視点を変えたことだという。戦争で2回も死に目に遭い負戦国出身のマティさんの過去を、Mr.Bishopも認知でありながら、その事実を根底に生まれたポジティブな波動により、戦争で培われた‘敵・日本’のイメージを‘友人日本’に変えたこと、自分が惚れたオーナーに逆に惚れられたこと。それはマティさんのひたすらにロマンを求める行動から始まり、与えられた役割で出来た事だ。

 

 

 

生きている限り意味ある生とその力

 

“とにかく今日、明日で結果を出そうとするのではなくて時間が掛かってもいい、健康でいる間ずっと生きて、続けられるという喜びがありますね。何でもやりがいがありましたよ。ましてや異国の地に来ているんだから!そして男にはロマンが必要なんですよ!人の喜怒哀楽ってあるけど、不幸にして幸いだった事は英語が堪能でなかった事。英語が解ったら怖いものだらけ!ビジネス社会で知らないから感情的にならなくて済む部分があったり!でもこれは負け惜しみ~”と大笑いするところに彼の大きな器を感じた。そして今、奥さんにおいしいごはんを作ってもらい、毎晩一杯飲んで、老体に鞭打ち日本へ行き、仕事を頑張る事が出来る幸せを感じるのだと。掻い摘んだ自分の人生話が少しでもオレゴンの皆さんの役に立つことがあれば幸いだな、と願うマティさん。そして、素晴らしいオレゴンを愛して欲しいと感じる。常にロマンを追いながら、人として、男として、いつまでもダンディーでいたいと願うマティさんは、へミングウェイの‘老人と海’の老人のように‘静かにボートの上で逝きたいものだねー’と目を細めた。

 

 

インタビュー 2010