頑張る日本人:佐伯 明―Mr.キャップ



愛媛県松山市出身。大正13年生まれ。4人兄弟の末っ子で 母校はあの坊ちゃんで有名な夏目漱石が教鞭をとっていた松山中学。(現在、松山東高等学校)漱石の教えはしっかりと受け継がれていた当時、今でも憶えていることは、Possibility とProbabilityの違いの説明。(教壇で逆立ちする事はPossibleだけどProbablyないでしょう!)



好きでも学べなかった英語

英語が好きだったMr.Cap。私学松山高商(現松山大学)でも英語は学んだが、戦時中は英語自粛の風潮があったため、使う事も学ぶこともはばかられた。例えばカタカナ言葉の‘ベースボール’は‘野球’と直されたように。そんな理由で戦時中は随分英語を忘れたそうだ。




無意味な卒業証書

失う兵士補充のために4月卒業が9月の繰り上げ卒業になった時代。その後大学への道もあったが、大学に入ってもすぐに召集されてしまう。“自分も高商までしか出てないんだよ。大学は1ヶ月出ただけで卒業証書をもらう無意味なもの。仕事をした方が賢明だ”と、叔父の勧めに従った。大学卒でないハンディはあったものの、今でも叔父は正しかったとつくづく思うCap氏。




忘れ去られてほしい!?

周りの人達には次々と召集令状が届く中、キャップ氏にはなかなかやって来ない。みんなに‘忘れられた’と冗談を言れるが‘忘れられたのなら結構!’が本音でしたよと笑いながらも真面目なMr.Cap。‘お国のために’が戦時中のうたい文句。それでも人々の本音はCap氏同様忘れられて欲しかったに違いない。そして1944年、歩兵12連隊(徳島)に入隊、遂に満州 虎林(ソ・満、国境)行きが決定した。20歳、2月のことだった。





重労働と空腹

戦争の記憶の殆んどは心身的な苦しみ痛み、空腹との戦い。苦しい経験を掻い摘んで挙げるとキャップ氏の場合、重機関銃隊に配属されこの重機運搬が相当な重労働だったこと。重さは8貫(30kg)2部品、計60Kg!(この運搬は、通常1部品1名ずつで2名で搬送 銃身の担当は射手と銃座の担当は弾薬手で 之に弾薬のみを受け持つ者数名と合わせて3グループで 行軍中は射手(銃身担当)と弾薬手(銃座担当)は適宜交代出来たが、弾薬のみを受け持つ者には交代はない。徳島での訓練中は弾薬運びは空箱であったので、これに限ると弾薬運びを選んだが、現地では空箱ではなく実弾入りでこれまた30Kg。全行軍中交代がなく、鉄の塊を担いでいるのでつり革は両肩にめり込み、箱の角は背中に突き刺さりえらい目にあったと語るMr.Cap。




満州で

徳島出発時に支給された新品で厚手のラシャ軍服は 門出を祝うはなむけ様か、現地に着いたら即、裏も擦り切れた薄ぺらの服に着替えさせられたという・・・零下数十度の満州で。その中で唯一の明るい記憶というと、満州の雄大さに魅了され情熱が湧いてきて、戦争が終わったら満州で仕事をしたいと思ったこと。更に、Mr.Capのバスケ仲間で中学、高商と1年先輩で親しくしていた土屋先輩がCap氏の配属された銃機関銃中隊の中隊長兼初年兵教官であったことは、奇跡とも言える嬉しい巡り合わせだった。“人の運命は全く予測できないもんでね”と言う。こうして戦争を肌で知らない私に、孤独な戦争の真っ只中、感極まり無い再会の念を抱く2人の姿が荒っぽい造りの満州荒野の兵舎の中に見えた。




感激と葛藤と

虎林駅頭で無言で迎えた先輩を 冷たい奴になったなと思ったが、立場上の理由だと解ったのは兵舎に着いて直ぐに呼ばれた時。駅頭から約1時間懸けて積雪の中を歩いて連帯本部に到着。与えられた兵舎のベッドで支給の日常品を点検中、教官に呼び出され 形式通り直立不動で姓名と階級を名乗った。そこで土屋教官から‘よう来たのう、ま一杯呑め’と酒の入ったコップを出された時は目頭が熱くなったという。更に土屋教官から、“お前覚悟して来たか”と言われ、“何をいな”とつい松山弁で聞きなおしたところ、日本にはもう帰れないのだと宣言された。“とんでもない俺は帰るよ!”と反発したが先輩は無言だったという。その後、数回呼び出され酒の歓待に預かったある日、重機は自分の体力で運ぶのはは無理だからと経理を志願したいと伝えたところ“経理は兵隊じゃない!俺が許さん!”と士官学校で洗脳された通りの勢いで怒鳴られた。本当の軍人にしたい親心だとわかっていてもMr.Capの複雑な気持ちが心苦しい。




異臭の中、雨水の中

戦争末期2月に徴兵され、1ヶ月徳島連隊で訓練の後、満州虎林の連隊に配属され5月には本土防衛の為に帰国。満州から2週間ほど揺られた貨物列車の移動では、あらゆる物資を詰め込んだ残りの隙間に入れ込まれて兵士達の排泄物の異臭で閉口した。貨車内での食べ物は乾パンのみ。地元高知に帰ってきて嬉しいのもつかの間で、一切の防衛陣地は出来ておらず、敵の上陸しそうな場所の水際陣地と山際での防衛陣地の構築に不眠不休の超重労働が待っていた。夜中に体が嫌に冷たいと目を覚ますと、満州から持ち帰ったテントが穴だらけで、疲れきった体が半分雨水の中だった事もある。




銃弾の雨

戦争が終盤になっても、それを知らないのはまともな食べ物もなく超重労働を強いられていた兵士達。高知市が焼け野原になってゆくのも目撃、いよいよアメリカの爆撃機・戦闘機の飛来が激しくなり、先輩の好意(?)で名誉ある射手にさせられたMr.Capは低空で飛来した米軍戦闘機に向かって重機を連発。初めて重機の居場所を発見した米軍は折り返し帰ってきて3回目の時は更に低空で飛来。急いで田んぼのあぜ道に出て伏せていたら、脇5m辺りに銃弾の雨を受けた。体に水しぶきがあたって、それはもう生きた心地がしなかったと。戦闘機のパイロットと目も合って、よくぞまあ死ななかったものだと自分の強運を感じた。




太った戦士

戦後、臨時憲兵団体召集(一生涯の役割)が掛かったが、土屋先輩のおかげで隊長当番にされた。隊長だけは一般民家で止宿していたので、Mr.Capも民家へ移動。そこでは白米と、当時想像も出来なかった肉・魚の缶詰めの食べ放題。たいしてする仕事も無く過ごした為に、戦時中太ってしまった!負け戦争から太って帰ったから体裁悪かった…と笑うMr.Cap。‘殺される前に籠に入れられ太らされる鶏の様でした’と自分を例えるCap氏の戦争の話は、臨場感があり、悲しくもおかしく、仕事を忘れて夢中で聞いている自分にはっとしたほど。




キャリア

戦後、兼松大阪支店の商社の木材部にいて、木材買い付けのため北海道に送られたのがキャリアの始まり。北海道で道内各地に回る度、米や炭持参で宿屋に行く時代。Cap氏は民間貿易が始まった直後、初めて小樽から針葉樹ではないハードウッドの直接海外輸出を行った木材輸出の先駆者。東京銀行からも後押しされ大歓迎を受けた海外輸出事業だった。




 ‘Cap’のいきさつ

大活躍のCap氏は米派遣となるのだが、アメリカでのカルチャーショックは人の名前を呼び捨てにすること。何しろ家族にも誰にも呼び捨てにされた事が無いから不可快極まりないと。日本人として呼び捨てに対する心理は納得できる。しかしこの不思議な名:Cap…この名の付いたいきさつはこう。60年前の事。木材買い付けの仕事で北海道に視察に来た取引先アメリカ人。3日で取引先の製材工場を全部見たいという。北海道全土10箇所にも散在するのに3日とは無謀な日程。言うとおりに行動すると言うので、毎朝5時起きでアメリカ人の彼を引きずり回す日程だった。その酷なスケジュールを施行するCap氏に‘北海道のキャプテンだ!’と告げたと言う。それ以来‘Dear Cap’で通信が来るようになり、交友も深まっていった。いよいよアメリカに移住になるという1956年、英語名が必要だろうと彼を訪問した際尋ねると、もうあるじゃないキャップ!と。全米で独占販売権を与えていたLAの木材会社の友人が名づけ親だった。





多くの功績、受勲・・・戦争以上の苦難はないから

1956年単身でポートランドに来て、3年後に家族同伴を許可されて以来ポートランド住まい。Cap氏は日本庭園理事、会長を務めた後、国際日本庭園協会を設立。会長として活躍する他、オレゴン日米協会、札幌姉妹都市協会、ポートランドロータリークラブ、と地域への貢献は続く。1996年には日系米国人として双光旭日章を叙勲されている。北はアラスカ、カナダから南はサクラメントまで、土日無しで走り回った事は決して楽ではなかったが、戦争体験を思えば何でも出来ると思った。大半の同僚が栄養失調でバタバタ倒れる中で、お金を積んでも出来ない自分の限界を教えてくれた戦争体験。元気で明るく楽しいキャラクターの奥に当時の学びが今も色濃く残り戦争の暗闇は、その後の人生で外に光となって溢れているようだ。