頑張る日本人: Jazzギタリスト 小沼ようすけ



両親の演奏会


今年2012年9月末、ハーモニカ演奏者Joe Powers 氏とのコンサート共演で初ポートランド入りした小沼ようすけ氏。何故音楽で、ギターで、Jazzになったのかというと……エレクトーンの先生だった母と、趣味でギターを弾く学校の先生だった父は、彼の子供時代よく二人で一緒に歌い演奏していたという音楽溢れる一家で、両親の演奏と歌声が響く家庭で育った。女の子ばかりが習うエレクトーンは女の子っぽくって敬遠する反面、父が弾くギターは男っぽくカッコいいと感じていたようすけさん。幼少時代は、秋田から1時間程行った祖父母の住む田舎によく行き、自然の中を駆け回って遊んだ。両親による演奏会が減り始めてから、父に代わるようにギターを弾き始めた記憶が残る。



好き’が生み出すパワ~

  
   内気な子だったという小学生時代は野球部に所属。中学生になると、坊主頭の野球部はごめんだと、得意な足の速さを生かす陸上部へ。中2から始めた新聞配達は陸上部にピッタリのバイトだった。“学校でのバイトは禁止でも、親はいいよって”と笑うようすけさん。18歳まで過ごした出身地秋田の冬は一面雪景色。“雪の中、一生懸命ソリを引いて配達しましたね~子供の自分にとって月2万円は大金だったから!でも今は出来ないしやりたくない~”と大笑いしながら、目標に向い一心不乱だった思春期を振り返る。人と違う事を求め、誰もしていなかったロックバンドを組み、つま先から頭まで、ビシッとロッカーを装った少年の欲しかった物はギターの付属品。目標があったから1年間の新聞配達は全く苦にならなかったのだと。



悪夢の後にたどり着いたのは 感謝


16歳になるや否やバイクの免許を取り、喫茶店のバイトで貯めたお金と両親の援助で手に入れたバイク。ところが、3ヵ月後に無残なバイク事故に遭ってしまう。400ccのバイクは大型トラックの下敷き、本人は30mも先にすっ飛ばされ、その先の電柱に激突し左腕をぽっきり骨折。気が遠のく中、生まれた頃から現在にさかのぼり、家族や今までの人生が8ミリ映像のように次々と脳裏に廻ったという。波のように押し寄せる後悔や悲しみの最後にようすけさんがたどり着いたのは、両親への感謝の気持ちだった。当時を振り返り、葛藤の最後にたどり着いたところが感謝の気持ちだったことに、安堵、喜び、生への感謝を感じてならないという。




死の中の生


   しかし、命は取り留めたもののギター演奏への再帰は50%の確立。方向性を失った暗闇の中、1人置き去りにされた絶望的な心と様々な葛藤の気持ちが交差する中、友人と話す気力さえ無い3ヶ月間の入院生活と、その後のリハビリ生活。そんな拠り所の無い悶々とした心の支えになってくれたのが肌身離さなかったギター。不幸中の幸い、ギブスが外れた後に動いた指で、ギターと語るように弦をはじく毎日が1年程続いた。高校は留年より退学を選択。塾教師であった父にとってはショックだっただろう、とようすけさんは回想するが、立ちはばかる壁と向き合う彼を、家族は温かく見守り続けてくれた。 “無理に貴重な体験をすることになって!”苦悩の日々を笑いながら話せるのは、16歳という若さで生と死の接点を否応なしに経験し、それが今の土台となっているからだ。ようすけさん曰く“若い時に死と向き合う体験をして良かったなって思いますね。あの時プロに進もうって決心したんですよ。”新しく授かった様な人生と、大好きなギターを再度弾けることへの感謝、多くの不幸中の幸いに包まれ、自分の道が進むべき方向へ導かれている神秘に納得しながら、こうして今がある事に感謝する。家出したり反抗期ならではの親子間の葛藤があった事故前だが、その後親子関係は温和になった。暗闇にいたのは両親も同様。親子共々生を見つめ、互いの存在価値に気づき、優しさと労わりの気持ちで理解し合える仲に変化していた。
 


導き手、そしてつながる過去


  大学検定受検を考えていた息子に、同じお金を使うのなら、音楽の専門学校へ行ってはどうかと両親から助言があった。自らの願いとよき理解者からの助言に導かれ、東京の音楽専門学校へ入学。そこで初めてJazzと出会い、ロックとはまるで違う難しさと奥深さを知った。ややこしいJazzを何とか理解しようと、カセット・テープで有名演奏者の音楽をガチャガチャ録音繰り返す毎日。まるで新しい言語を学ぶかのように。事実、ロックには無いJazzの言語を1から学ぶ必要があった。そんなある夏、毎年恒例、家族で行く秋田北部へのお墓参り旅行中、父が車内でJazzをかけた。ブルース好きの父はJazzも頻繁に流していただろうに、今まで反応しなかった本人。耳に入ってきたのは、丁度学校で学んでいた理解困難なリズム。こうすればいいんだ!と悟った瞬間だった。今まで身近にありながら気づかなかったリズムと、学んだばかりの新しい知識が交差したことに驚愕しながら、この時Jazzの虜になっていった。以後、ロックを忘れたいくらいにJazzまっしぐら。まずは形から、と装った格好はまるでサラリーマン!彼の一途な気持ちと、どちらに転ぶか判らない微妙で紙一重のスーツ姿が目に浮かぶ。学生時代は、スタジオの受付、引越しの日雇い労働のバイトもした。が、プロになるまで続けた採譜(音楽を聴いて楽譜をかく)のバイトやスタジオでのギターレッスンという、音楽の仕事だけで食べていけた時は心底嬉しく、それが自信につながっていった。
 


信じる者は達成す


 Jazzを始めて2年半、最初のコンテスト出場は21歳の時。雑誌で見つけたのだが、その応募締め切りは発見当日。速攻でカセットテープに演奏を録音し、その足で会社まで持参した。そしてそのテープだけで、1995年、米・ナッシュビルでのヘリテ-ジ・ジャズギター世界大会、日本代表としての出場が決定した。かなりの緊張で臨みながらも、第3位と華々しい結果で世間から注目を浴びるが、得意技はその1曲だということが明るみに。再起をかけて猛練習に励み、1995年、東京で行われたギブソン・ジャズ・ギターコンテストに出場。大会第1位の副賞Jazzギターが欲しく、“そのギターの写真を切り抜いて、これは自分のもの!って勝手に決めて机の前に貼ったりして~”毎日拝みながら練習したと大笑いする。しかし、それ以上に優勝の重要性は、この大会に自分の音楽家人生を掛けていたことだ。これで駄目ならJazzの道を捨てようと。“2位で副賞のロック・ギターを貰ってたら、ロッカーになっていたかもしれないし、ひょっとしたらグレてたかも(笑)。自分の中は燃えまくりで作戦使ったり、かなり気合入ってた!”と苦笑する。見事優勝し、Jazzギターとそれを演奏する音楽家の道を獲得した。そのギターは今でもメインで演奏している。


ソニーとのご縁

   その後、日本Jazzボーカリスト・フリューゲルホーン演奏家TOKUさんがソニー・デビューの時、ようすけさんにバンド演奏を依頼。その時Jazzギター演奏家を探していたソニーのディレクター方と出会った。デモ・サンプルはないかと聞かれ、無いと答えた直後、何気なく手を差し込んだポケットに入っていたMD(当時流行っていたミニ ディスク!)。そのまま渡すと早速後日返事があり、トントン拍子で契約へと話しが進み、一瞬で世界が変わっっていった。2001年アルバム‘Nu jazz’ でソニーよりデビュー。日本最大の ’東京ジャズ‘ に2005年から2年連続出場。2007年にはジャカルタで行われたJAVA Jazzフェスティバルにも招待された。今までに発売したCDは8枚(2012年現在)。日本を代表するJazzギタリストとして注目を浴び続けている。




眉間にしわを寄せなきゃいけない・・・?
  

  テレビなどの華やかな場面で演奏する機会に恵まれてきたが、CD 5枚目発売の頃、海外のJazz演奏家達を振り返り疑問を感じ始めた。自然に住まいを求めコンクリートだらけの東京を後にし、サーファーと出会い海へと導かれたのもこの頃だ。‘海外発祥のJazzを、海外で生活した事もない、英語も話せない日本人の自分が演奏しているが、果たしてその自分のJazzは伝統を継承しているだけか、それとも自分を表現出来ているのか… ?と。眉間にしわを寄せ、苦しそうな顔で演奏する多くのJazz演奏家に自分を照らし合わせ、真似てみてもしっくりこないどころか落ち込んできさえする…自分もあんな風に演奏しなければいけないのだろうか…との困惑を解消してくれたのが、アメリカのJazzギタリストPeter Sprague氏。自分と同じバイブレーションを感じる彼は楽しそうにJazzを演奏していた。自然に生活から溢れる音楽を創り、素顔の自分で伝えたいとのようすけさんの心は、彼の気持ちよさそうな笑顔と演奏から自然に伝わってくる。私が驚いたのは、空気を奏でるように弦を触れる、柔らかい風のような演奏。軽やかに温もりを生み出す空気の中にいると、心が和んでくる。楽しく弾けながらもリラックス出来るJazz。自然なものは自然に心に響くからだろう。



永遠なる贈り物


2011年6月、癌で他界した父が亡くなる前の1年間、家族4人で一緒に生活出来たことが一番嬉しい思い出だと語る。鎌倉で店を経営する母親と地元に残った父親は20年近く離れ離れの生活で、その事が常に気になっていたからだ。親子水入らずで過ごせた最後の1年は幸せな時間だった。亡くなった父の存在を生前離れて暮らしていた時よりも身近に感じ、淋しさではなく幸せを感じられる事は幸運だと彼は言う。親の死後立ち直れない人がいる中で、自分には音楽やギターといった、親が与えてくれたものがあるから大丈夫なのかな、と思ったりするのだと。


地球・音楽、共通の波


始めのうちは楽しくも、もどかしかったサーフィン。ギターと同じで、学ぶうちに自分に近づき一体化する喜びと感動がある。ギター音楽の波、サーフィンの地球の波、共通の波動があって“今じゃその共通点を見つけるのが趣味みたいになって!”と楽しそうなようすけさん。5,6年毎にやって来る人生の変換期にある近年、どうやら心が強く求めた時に開かれる扉が開いてきた事を感じるようだ。旅するきっかけをもらったサーフィンと共に自然と調和しながら、常に感謝と謙遜の念で素直に人々や出来事に遭遇する彼だから、次のステップへも自然に導かれてゆく様が見て感じられる。そんなようすけさんを、これからもそのままで頑張って!と応援してゆきたい。