今から20年ほど前、うちは両親が定食屋をやっていました。
当時は我が町にも野良猫がたくさんいて、道を歩いていて猫に会うことは珍しいことではありませんでした。
そんな中、うちのお店の厨房の裏に、ごはんをもらいに来ていた1匹の猫がいました。
アビシニアンのような毛色で、シュッとした顔立ちのスリムな雌猫でした。母は彼女を「みーちゃん」と呼び、かわいがっていました。
みーちゃんはプライドが高く、気軽には触らせてくれませんでしたが、うちの厨房の裏にあった物置の前で、よくゆったりとくつろいでいました。
2003年の春先だったでしょうか。
仕事から帰った私に、「みーちゃんが子猫をくわえて来たよ」と母が言いました。どうやら、物置の床下で子どもを産んだようです。みーちゃんは母に出産報告をしに来たのでしょうか。
その後、みーちゃんと子猫たちは我が家の物置で生活を始めました。
子猫は4匹いました。
茶白の子が2匹、真っ黒な子が1匹、白黒の子が1匹。
最初はみーちゃんだけが母のあげるごはんを食べていましたが、そのうち子猫たちもごはんを食べにくるようになりました。
それからしばらくして、いつのまにかみーちゃんは姿を消しました。茶白の子も1匹、いなくなりました。
残った3匹は物置に住み続けました。
その頃、茶白の子は男の子、黒と白黒の子は女の子であることがわかりました。
3匹はうちにずっといるわけではなく、昼間はふらっとどこかに行っていて、ごはんになるとうちに来る、という暮らしをしていました。
母(たまに私)にごはんをもらう時、茶白の男の子は女の子たちに先に食べさせ、自分はゆったりと寝そべって女の子たちが食べるのを見守っていました。他の場面でも女の子たちの毛繕いをしてあげたり、見守っているような様子があったので、たぶん、彼が女の子たちの兄なんだなと思いました。
そこで、母と私は茶白の男の子を"おにいちゃん"と呼ぶことにしました。
そして、黒い子は"くろちゃん"、白黒の子は"うしこ"(牛みたいなもようだったので)と呼び名が付きました。
当時、うちの裏には居酒屋があって、その厨房とうちの厨房は向かい合っていました。居酒屋の女将さんもおにいちゃんたちにごはんをあげることがあって、子猫たちはうちではなく居酒屋の厨房の出入り口でごはんを食べていることがありました。
母がとても悔しがって、おいしいキャットフードを買って来て対抗していました。
おにいちゃんたちはとてもいい子で、ごはんをもらう時以外は厨房には近付かず、ごはんの時も厨房に入ってくることはありませんでした。
私は外で仕事をしていたので、昼間は子猫たちに会うことはできませんでしたが、夕方帰宅して店に行くと、ごはんをもらって物置でくつろいでいる彼らに会えることがありました。
子猫たちはかわいかったけど、私はその頃地域猫の問題に関心を持っていて、無責任に餌やりをすることに疑問を持っていました。それで、母にも「最後まで責任持てないなら、猫たちにあまりかまわないほうがいいんじゃない?」と言っていました。それを言うと、だいたい母と口論になってしまって、それ以上は強く言えませんでした。
そんな日々が続いていた、ある秋の日のこと。
うちのお店は営業がランチタイムと午後に分かれていて、15時から17時頃まで店を準備中にして午後の仕込みをしていました。母はその時間に近所に買い出しに行くのが日課でした。
その日も、母は買い出しへ行き、店には父が1人残って、仕込みをしていたそうです。
ふいに厨房で猫の叫び声が聞こえたそうです。喧嘩しているような、複数の声でした。父が見に行ってみると、開けっ放しだった厨房の裏の出入り口から、見たことのない大きな猫と、おにいちゃんらしき子猫が飛び出していくところでした。
厨房を見ると、火を落としたフライヤーの周りに油が飛び散っていました。そこに母が帰って来て、父から状況を聞きました。
どうやら、大きな猫(たぶん野良猫)に追いかけられておにいちゃんが厨房に入り込み、フライヤーの油に落ちてしまったようです。
母が店の周りを探してみましたが、おにいちゃんの姿はありませんでした。
私は仕事から帰って来てその話を聞き、すぐにおにいちゃんを保護しなければと思いました。
でも、怖い思いをしたのでもううちには来ないかもと半分諦めていたら、翌朝、おにいちゃんが厨房の扉の前でうずくまっていました。
体がベトベトに汚れていました。やっぱり油に落ちたようです。汚れ以外はどこかケガをしている様子はなかったので、大丈夫かなと思って私はとりあえず仕事に行きました。母にはおにいちゃんの様子をよく見ておくように頼みました。
昼休みに母に電話して、おにいちゃんの様子をきいてみました。いつものように妹たちと一緒に物置にねそべっているけど、妹たちがおにいちゃんの体の上を踏み越えて行くたびに、おにいちゃんが「ぎゃっ」と悲鳴を上げたそうです。
これはやっぱりどこか火傷しているなと思い、母におにいちゃんを捕まえてダンボールの箱に閉じ込めておくように頼みました。
当時、私はハムスターを飼っていた、ハムちゃんでお世話になっている獣医さんがいました。その先生に電話をして、ケガをした野良の子猫を診てもらえないかきいてみました。先生は快く「連れてきて」と言ってくれました。
仕事帰りにホームセンターに寄ってペットキャリーを買い、家に帰ると、おにいちゃんはお店の奥に置いた箱の中で、ぷるぷる震えていました。
すぐにキャリーに移して、動物病院に連れて行きました。
動物病院は電車で20分くらいかかるところにありました。うちの近所にもいくつか動物病院があるのですが、ハムスターは診てもらえず、ネットで調べた動物病院でした。ハムちゃんもよく診てくれたので、私も母も先生には絶対の信頼を寄せていました。
電車の中で、おにいちゃんが細い声で「にゃあ」と鳴きました。私はキャリーの蓋から中を覗き込んで、「大丈夫よ、今、お医者さんに診てもらうから。頑張ろうね」とおにいちゃんに声をかけました。
そしたら、おにいちゃんが「にゃあ、にゃあ」と力強い声で鳴き始めました。まるで「うん、ぼく、頑張るね」と言っているみたいでした。
動物病院に着いて、先生におにいちゃんが油に落ちたらしいことと、どこか痛いらしく触られると悲鳴を上げることを告げました。
先生がおにいちゃんの左後ろ脚を触ると、おにいちゃんは悲鳴を上げました。先生がさらに触ると、みるみる被毛が落ちて、ズル剥けの赤い皮膚があらわれました。
「火傷してるね。かなりひどい」
念のためレントゲンを撮ってもらいましたが、骨には異常はないとのことでした。骨格から最後8ヶ月か9ヶ月くらいだということも教えてくれました(この時におにいちゃんの誕生日は1月1日に決まりました)。
先生は手際よく傷の処置をして、包帯を巻いてくれました。
そして、私に「どうする? この子、飼ってあげないと死ぬかも」と尋ねました。
私は「一度家族に相談したいので」と待ってもらい、家に電話をかけました。
もちろん、私はうちの子にするつもりでした。でも、母は電話口で「え、飼うの…?」と言葉を濁らせました。私はカッとして、「だから責任を持てないなら構うなって言ったじゃん!」と怒鳴ってしまいました。
「 ママがダメって言っても、私が全部世話するしお金も出す。おにいちゃんはうちに連れて帰るからね!」
電話口で、母は泣いていました。そして、おにいちゃんをうちの子にすることに賛同してくれました。
うちの子になると決まったけど、おにいちゃんは3日間ほど入院が必要になりました。入院の間に健康診断とお腹の虫下しするとのことでした。
私が今まで猫を飼ったことがなく、大ケガをした子を迎え入れるのには不安がありました。我が家は昼間は私は仕事に行き、両親も店をやっています。住まいは店と同じ建物にありますが、しょっちゅう様子を見に行くことは無理でした。
先生に相談したら、目の届かない時はケージに入れることを提案してくれました。おにいちゃんのプライベート空間にもなるし、不自由な脚で家の中を歩き回ってしまってどこかに潜り込んでしまうことも防げます。
おにいちゃんが入院している間にケージと飼育用品を揃えて、動物病院から「お迎えに来てください」と連絡が来るのを待ちました。
うちの子になるんだから、「おにいちゃん」じゃなくてちゃんとした名前を付けたいと思いました。私は「ちゃしろう」(茶白だから)という名前を提案しましたが、母に却下されました。ずっと「おにいちゃん」と呼んでたから、きっと本人(本猫)もそれが自分の名前だと思ってるだろうということで、そのまま「おにいちゃん」が彼の名前になりました。
そして、ついに退院。包帯とエリザベスカラーが痛々しかったけど、おにいちゃんは元気でした。
最初の関門はトイレしつけかなと思っていたのですが、なんと、おにいちゃんはうちに来た初日からトイレでしっこができました。ひとりでトコトコとケージに設置したトイレに入り、猫砂の上に座ってちーっとやりました。教えてないのに、すごい。
もしかして、産みの母のみーちゃんがおにいちゃんにしつけてくれたのでしょうか。いつか、おにいちゃんがうちの子になるのを知っていたのかもしれません。「いい子にしておうちの猫にしてもらいなさい」と、おにいちゃんに言い聞かせてたのかな。
ケガにも負けず、おにいちゃんは元気でやんちゃでした。子猫らしくよく遊びました。
猫オーナー初心者の私でしたが、本やネットで知識や情報を集めて勉強しました。猫は以前から好きだったけど、身近でナマの猫を見ていると新しい発見があって、私はますます猫にハマりました。
母も、おにいちゃんにメロメロでした。まさに猫かわいがり。仕事の合間にしょっちゅう住まいに上がってきて、なでなで、すりすり、ぎゅむっとおにいちゃんを愛でました。
おにいちゃんがうちに来て1ヶ月くらいした頃。
おにいちゃんの左後ろ脚の包帯に血が滲んでいました。
慌てて動物病院に連れて行ったら、おにいちゃんの左の踵あたりから大量に出血していました。
火傷で傷付いたアキレス腱が、ついに崩壊してしまったのでした。おにいちゃんの左後ろ脚は、歩くのには使えなくなりました。
その後、アキレス腱の傷がふさがった頃に包帯を取ることになりました。ズル剥けの皮膚が出たままになるので、毎日朝晩に薬を塗らなければいけません。皮膚が再生することもないかもしれないそうでした。
先生は皮膚移植する方法もあると言ってくれました。でも、難しい手術でお金もかかるうえに成功率も50%と高くはない、とのことでした。
私と母は、なるべく自然な形で暮らしていけるなら…と希望して、薬を塗り続けることを選択しました。
↑こんな酷いありさまでした。
薬を塗るとすごく痛がるので、私と母で2人がかりでした。母がおにいちゃんを抱っこして押さえて、私が薬を塗る。痛がって鳴くおにいちゃんに何度も「ごめんね」と声をかけながら、辛い仕事をこなしました。
そうやって薬を塗ること約2年。
おにいちゃんの火傷のあとに、白い皮膚ができました。
毛根は再生しなかったらしく、被毛は戻ってきませんでしたが。
獣医さんに「奇跡だ」と感心されました。
おにいちゃんは、「生きたい」という思いが強かったのだと思います。
だから、怖い思いをしてもうちの厨房の裏に戻って来た。
私たちに助けを求めに来たのでしょう。
皮膚ができたのも、おにいちゃんの強い意思が起こした奇跡です。
こうして、おにいちゃんはうちの子になりました。
うちの子になってくれて、本当にありがとう。
おにいちゃんと暮らした19年、忘れられない思い出がいっぱいだよ。
去年の猫の日のおにいちゃん。↓
でっかくなったよなあ。
脚が不自由なのに最後まで元気でまるまるしてました。
去年の猫の日はお姉ちゃんとママのそばにいたのにね。
今年の猫の日も一緒にいられると、何の疑問もなく思ってたのに。
寂しいよ…。