原爆落下中心地碑(長崎紀行・其の3)

 

 

1945年8月9日11時02分。

アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪った。

原爆落下中心地標柱として(推定に基づく「爆心地」)に黒御影石の碑。

碑の高さ約6.5メートル(1956・昭和31)年設置。

訪問する修学旅行の生徒たち。

 

 

爆心地に掲示されてある1945年10月 林重男氏撮影パノラマ。

当時「音が無くなった世界」「色が無くなった世界」「人影が消えた街」と表現されていた灰色のがれきの街が延々と広がっている。

 

 

 

 

浦上天主堂遺壁

大正3年(1914年)に天主堂、大正14年(1925年)にその双塔を完成させ、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂は、原爆によりわずかな堂壁を残し崩れ落ちた。

この遺壁は、聖堂の南側の一部を爆心地に移築した。

 

 

浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)の写真が掲示されてある。

 

 

千羽鶴が掲揚されてある。

平和を願い、訪れる方々が持参するのだろう。

 

 

被爆当時の地層。

原爆落下中心地のこの辺りは川が流れ、川沿いに住宅が建っていた。

埋め立てられて緑地公園としたので、被爆当時の地層は現在地より5m位下となる。

破壊された家の瓦やレンガ、焼けた土や溶けたガラスなどが大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す資料として保存され、観ることが出来る。

 

園内には被爆当時の地層も残されており、約3000度の熱で壊された家の瓦やレンガのほか、焼け溶けたガラスなどが今も大量に埋没しているのを見ることが出来る。

記憶は遠ざかってしまっても、これを目の当たりにすれば原爆の悲惨さを思い起こす。

 

爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされ70年は草木も生えないだろうと言われたが、1ヶ月後には植物が次第に芽吹き始めたという。

爆心地も今はすっかり緑に囲まれ、かつての惨状は想像もつかない。

しかし、ウクライナ・パレスチナで核は隣り合わせ。

いつ何時、不測の事態が発生する可能性があるのを肝に命すべし、と改めて思う。