江戸氏 知られざる水戸の戦国時代@水戸市立博物館

2月3日~3月10日

 

水戸は江戸時代に徳川将軍家の御三家の一つであったので、徳川氏との繋がりは当然だが、歴史的にたどれば平安時代に遡る。

当初は馬場氏の居館が現在の本丸付近にあったと考えられている。

その後、馬場氏を追いやった江戸氏が水戸城を居城とし、天正18年(1590)に佐竹氏によって滅ぼされるまでの間、およそ160年近くにわたり水戸城主として地域を治めた。

江戸氏の時代に、都市としての水戸が誕生したといえるが、詳しいことが知られていない。

本展は、水戸や周辺地域に残された資料から、江戸氏の足跡をたどり、戦国時代の水戸の姿を明らかにする企画展だ。

 

 

 

 

水戸市立博物館の4階と3階の半分を会場とし、以下のような章立てになっている。

第1章 江戸氏の拠点

第2章 戦国の世を生きる

第3章 江戸氏の地域支配

第4章 江戸氏時代の信仰と文化

第5章 江戸氏の滅亡

第6章 水害と共に生きる

 

関東地方の戦国時代は話題になることが少なく、分からないことばかりだ。

会期中に何度か足を運べばいくらかでも理解が深まるのではないかと、今回で2度目の訪問だが、興味のある項目について幾つかを記す。

 

 

 

常陸国水戸城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。

江戸時代初期だが、江戸氏の時代とさほど変わらないであろうという推測で展示された。

現在と比較してみれば、大枠としてはあまり変わっていない。

我が家の在る備前町を含め南町や泉町も然りで、街路は殆どが当時のままだ。

黄色で塗られたラインが当時の主な通路とのことで、本丸下から千波湖の裾を巡り神生宿から西町を経由し、金町から馬口労町(現・末広町)に至る。

 

 

寛政5年(1793)絵図の南町~泉町~大工町

上が南で下が北で、千波湖と那珂川が逆に描かれてある。

当時の地図は必ずしも北が上、南が下とは限らない。

 

現在は紀州掘り・西の谷と呼ばれている堀と土塁。

千波湖の広さ、台地の間際まで渚だ。土塁の上の松並木が明瞭に描かれている。

日本の原風景は松や松林だが、松くい虫による虫害で多くが失われた。

東海道などでは残されているものもある。

復元されることを願うが、手入れの煩雑さや虫害に弱いのが難題だ。

 

 

 

河田城縄張り図

延元元年(1336)、大掾氏家臣・河和田入道鍛弾正定国が桜川流域を支配するため築城した。その後、江戸氏がこの地を得て城主となった。

応永33年(1426)、江戸通房が大掾氏より水戸城を奪取した後は重臣春秋氏が城主となった。戦国時代、江戸氏は佐竹一門の待遇を得て佐竹氏に従い、大掾氏らと抗争を繰り返したが、天正18年(1590)小田原の役後、常陸国統一を目指す佐竹義重・義宣父子による水戸城攻略の際に河和田城は落城し、廃城となった。

しかし、堀や土塁が現存しており、中世の城郭を街中で見ることが出来る、貴重な文化遺産。

 

 

 

戦国時代からの水戸城下の中心的な町場であった大阪宿(水戸市大町)の辺りから見渡した那珂川方面の景観を描いた明治時代の絵図。

現在の水戸気象台の下の辺りを、私が子供の頃は「風呂の下」と呼んでいた。

変わった地名と思っていたが、かなり昔からの呼び名らしい。

台地の上には湯屋があったことに拠るらしい。

ここから青柳の渡船場(現在の「萬代橋」のところ)につながる。

幕末に烈公により制定された、水戸八景の「青柳夜雨」の地で石碑も在る。

 

台地の反対側(南側)、現在の梅香トンネルの辺りは湧水があり「満梅之湯」という温泉施設・銭湯が第二次大戦前まで在った。

水戸の舌状台地の南側と北側には必ず湧水地がある。