柴田暁山と田中市郎兵衛~『禁断の海辺』から

 

旧茨城県庁舎(現・三の丸庁舎)前の水戸城土塁のイチョウの紅葉を観に行った時、堀の反対側の水戸地方裁判所の楠の樹の大木を見ていたら、ギャリソンキャップ(舟形の帽子)を被った米兵が沢山いた、進駐軍本部「茨城軍政部」の時代がよみがえった。

 

 

そんな時に「田中市郎兵衛のことを知っている人いない」との話が有った。

占領下の水戸において「柴田暁山と田中市郎兵衛」は度々登場する謎の人物だ。

当時は子供だったから知る由もないが、闇の世界で幅を利かせた人達がいた。

友人の箕川恒男さんが著した~: 国策に翻弄された半世紀の記録』(鹿砦社 1984.1)の中には度々登場していた。

箕川さんから贈られて読んだが、今まで知らないことばかりだった。

その後、誰かに貸したきりで手元になく、県立図書館から借りてきた再読した。

 

 

 

現在「国立常陸海浜公園」として四季折々の花々、特にネモヒラ・コキアなどが有名だが、あの敷地を含め広大なエリアを占めていたのが旧日本軍の前渡飛行場。

敗戦後にアメリカ軍に接収されて空対地の射爆場になった。

それらの経緯を調べ、公園が出来る前までの記録が述べられている。

今や、地元の特産品となった「干し芋」についても詳細に記されている。

 

 

 

その中の一部として水戸の軍政部による統治状況下の日本人サイドで登場するのが「柴田暁山と田中市郎兵衛」で、アメリカ軍政部や警察は彼と利用しあう関係であった。

 

 

柴田暁山は「親分」とはいっても今の暴力団とは違う「壮士」ふうで、ロッキード事件の小佐野賢治とは縁が深く、黒塗りのビューイックの車検証の名義は国際興業か国際自動車になっていた。(国際興業・国際自動車の社長は小佐野賢治)

 

 

『アサヒグラフ 1947年(昭和22年)2月5日号』に柴田暁山 生葬式が

顔役棺に入ると大々的に紹介された。

 

1883(明治16)年7月に東茨城郡常澄村川又(現水戸市川又)で生まれた柴田は東京で大親分として顔役だったが、大洗町に戻って町長となり、1947年に生前に葬式を挙げる「生葬式」を挙げた。茨城県知事をはじめ官民ら数の多数参列する盛儀となり話題となった。

 

 

北海道に生まれた田中市郎兵衛は昭和の初期に勝田に転じ、肥料商や官林の払い下げを受けた開拓地の造成など、任侠豪商として財を成した。

戦後、水戸に進出したが柴田暁山との出会いが何時なのかは不明だが『柴田さんと田中さんはいつもアメリカ軍政部にいました。普通の人たちはそこに出入りすることは不可能でした』との証言もあり特別な存在だった。

田中は非行少年を集めて更生に力を入れるなどしたが、戦後は病院経営に当たった。

帝国陸軍との、そしてアメリカ軍とのコネクションがどのように発したのかは不明だ。

『任侠』という言葉の人たちによってことが運ばれていた時代の人たちだった。

 

 

国道の脇に在った、オレンジと白で塗り分けられた「給水塔」は射爆場のシンボルで、通るたびにこの奥に何が存在するか異様に思えたものだった。