小石川後楽園(3)

 

 

後楽園・西門

小石川の後楽園は水戸藩初代藩主徳川頼房が、邸宅のとして賜った土地に造成した庭園。山水を好む頼房の希望に応じたもので、小石川の土地は沼や丘があり起伏に富んだ地形で、樹齢数百年の高木等の自然的要素を備えていた。

頼房より作庭を命じられた徳大寺左兵衛は、この自然的要素を活かし、沼を大泉水として中島(蓬莱島)を配置する等庭園の基礎をつくるとともに、日本各地の景勝地を表現した。その後も、度々改修を重ね、現在の姿となっている。

5月18日に開催された「偕楽園公園を愛する市民の会」主催の「小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる」は小雨模様で、山の方には登れなかったので、6月18日に再訪し清水観音堂跡から得仁堂や八卦堂を巡った。

 

 

清水観音堂跡

 

 

通天橋

京都東福寺の通天橋を模して造られた。

 

 

 

得仁堂

光圀が18歳の時に史記「伯夷列伝」を読み、感銘を受け、伯夷叔斉の木像を安置した。創建時の建造物で現存するのは「得仁堂」だけだ。

現在、伯夷叔斉の木像は堂内に無いようだが、現在はどこに納まっているのだろうか。

 

 

 

「八卦堂」跡(当初は「文昌堂」)

寛永10年(1633)に6才の光圀が祖母英勝院に伴われて3代将軍家光に拝謁し、賜った「文昌星」の像が安置されていた。

山頂ともいえる場所はかなり広い敷地だが、下から見上げてはみえない。

 

 

菖蒲園と田圃。

光圀は、3 代藩主綱條の夫人に民の辛苦を教えるために水田を設け、水田での耕作や収穫の様子を見せたとされる。

現在は小さな田圃と花菖蒲などが植えられてある。

この場所ではないようだが、「動物園」などもあったらしい。

 

 

藤田東湖終焉の地碑

藤田東湖(1806~1855)は、 水戸藩上屋敷で安政の大地震に遭った。

その際、 東湖は母を下に囲って肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、 東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。 圧死した場所は白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園の中に移された。

 

 

東門

入場口は東門と西門が在る。

飯田橋に近い西門が一般的だが、東京ドームに近いのが東門で水道橋駅が最寄りの駅。