「宗敬・幹子の見た20世紀の海外」@一橋徳川家記念室
2022年1月29日(土)~3月13日(日)
明治~大正~昭和20年代頃まで海外に赴くことが出来たのは、ほんの一握りの
人々だけだった。
一橋徳川家第12代当主の徳川宗敬と、妻の幹子は、大正・昭和初期の頃から海外に赴いた。当時の日本人としては稀有な体験で、見聞を広め見識を新たにし、さらに、対外的には世界における日本の立場の構築にも、大きく寄与した。
宗敬自身が撮影した写真、あるいは幹子が海外にて入手した品々を通じて、宗敬・幹子夫妻がみた、激動の20世紀前半の海外事情を紹介する。
ライプチヒ、ミラノ、ベルリン、ロンドンなどでの写真など。
サンフランシスコ講和会議・条約。
1951年9月に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間で講和会議が開かれ平和条約が締結された。
第4回世界農村婦人協議会大会でのスピーチ(1959年・スコットランド)
徳川 宗敬(とくがわ むねよし・1897(明治30)年 - 1989(平成元)年
水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男として生まれ、一橋徳川家の養子となった。大正9年に江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の孫に当たる幹子と結婚した。
東大農学部林学科を卒業した宗敬は、幹子を連れて欧州へ留学する。
2人は2年半の洋行で先進国の文化に触れる一方、第一次世界大戦の敗戦国となったドイツやオーストリアでは地位や財産を失った貴族の没落ぶりも目の当たりにした。
第二次世界大戦後、最後の貴族院副議長となった宗敬は、昭和26年のサンフランシスコ講和会議の全権委員、伊勢神宮大宮司などを務める。
全国の植林運動にも尽力し、「緑化の父」とたたえられた。
幹子は21年に現在の水戸市見川付近の開拓地に一農民として入植し酪農に従事する。全国開拓者連盟婦人部の初代部長を務め、46年には茨城県婦人会館を設立して初代理事長に就くなど、水戸・茨城の女性の地位の向上のため大きな力となった。
余禄
講和会議はサンフランシスコのオペラハウス(ウォーメモリアル・オペラ・ハウス)で1951年に開催された。これに依って主権を回復した記念日だから、子供心にも忘れられない。
1991年に初めてサンフランシスコに行き、オペラハウス記念館を訪ねた時、この場所だったのか!と感慨もひとしおだった。