酒門共有墓地(其之弐)@水戸市酒門町320
第二代水戸藩主徳川光圀が、寛文6(1666)年藩士の為に2ヶ所の墓地を造成した。
上町居住者に「常磐共有墓地」、下町居住者のために作られたのが坂戸(酒門共有墓地)で当時は坂戸と表記した。
当時、怪しげな僧侶や寺院がはびこっていたので、寺社を改革し儒教に基づく秩序ある社会を築きたいと光圀は願った一環だった。
加藤雪潭(1809-1864)
松平雪山に画を学ぶ。藩主徳川斉昭の命により「追鳥狩絵巻物」18軸を佐野致盛らと描いた。元治元年先手同心頭となり,那珂湊で天狗党と戦い戦死。
朝比奈知泉(1862―1939)
東京帝国大学予備門を経て同法科入学、在学中から「東京新報」主筆となり,のち社長。「東京日日新聞」に招かれ主幹となって論説を担当。陸羯南・徳富蘇峰と並称された。
一段下がった所に善重寺の本殿と太子堂が在り、水戸の下町が遠望できる。
共有墓地と善重寺の墓地は境目がなく、行き来が自由の出来たが、フェンスが作られ、通り抜けできなくなった。
共有墓地の開設と善重寺の上寺町(現・金町)からの移転時期はほぼ一緒で境界もなかったように思われる。
原南陽(1753―1820)
藩医の家に生まれ、京都に出て山脇東洋に師事、また賀川流産科を修めた。
著書に『叢桂偶記』『医事小言』など多くあるが、『経穴彙解』は鍼灸のつぼについて述べたもの。『砦草』は軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意、救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初の著作。
木内克(1892―1977)彫刻家。
1914年(大正3)朝倉文夫の彫塑塾に入り、21年渡欧。
パリで1年ほどブールデルにつき、以後15年間フランスに滞在、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンなどに出品、ギリシアのアルカイック彫刻に傾倒した。帰国後一時二科展に出品したが、48年(昭和23)から新樹会展に生命感あふれる作品を出品した。
代表作に滞欧作のテラコッタ『女の顔』をはじめ『寝ている女』『見つけたポーズ』などがある。
酒門共有墓地管理委員会制作の「区画案内図」
斎場
隣の建屋に管理委員さんが常住しているが、必ずしもとは限らない。
●多くの著名な人物の墓地が在るので紹介しきれないが、
望月五郎左衛門恒隆(1596-1673)
寛永の総検地,久慈川の水路開削,笠原水道敷設などをつかさどった。
打越(撲斎)直正(1686-1740)
徳川光圀にみとめられ,14歳で 彰考館にはいり,三宅観瀾にまなぶ。
彰考館総裁「大日本史」編修にたずさわる。
吉田活堂(1791-1844)
藤田幽谷(ゆうこく)の門人で娘婿。徳川斉昭の藩主就任につくし,側近のひとりとしてその藩政改革をささえる。彰考館員,藩校弘道館の助教,歌道掛をつとめた。
等々、興味を感じている方に詣でれば「温故知新」何か感じるはず。







