藤田東湖と後藤玉龍
後藤玉龍が嘉永5年(1852)に寄進した歌碑(吉田神社境内)
徳川斉昭(烈公)の側用人として烈公を補佐し、藩政の改革を進めた藤田東湖は幕末の動乱期に良く対処して多くの期待を集めた。
しかし、藩政の内紛により幕府より斉昭が隠居を命じられ、東湖も蟄居閉門となった。
横竹隈に蟄居の東湖を訪ね、酒などを差し入れたのが後藤玉龍。
本町で「三浦屋」という煙草屋を営んでおり、店頭には東湖が揮毫した「三浦屋」の暖簾が掛かっていた。
東湖は逸話の多い人で酒豪であったことは有名で、お気に入りは「甕の月」(現・吉久保酒造の「一品」)だった。
当時の下町本町は土蔵構えの大商家が軒を並べる繁華街であった。
玉龍は「常陸三宮」吉田神社の鳥居前の大灯篭を大願主として寄進している。
更に、境内の三角山「前の展望台に『翌名楼』の歌碑も在る。
目の覚めぬ
うちぞ浮世は
栄華なれ
夢に暮らせし
昔思えば
嘉永五壬子春時
七十四翁 後藤玉龍自書
東湖が安政2年(1855)の大地震で50年の生涯を終える2年前。
調整力に長けた東湖亡き後は、烈公の指導力や名声に陰りが生じた
戸田蓬軒も安政の大地震で同様に災死。
戸田と藤田は斉昭を支える、世に「水戸の両田(りょうでん)」と称された。
後藤玉龍は町人で士分でも学者でもないが能筆家としては知られた。
しかし、このような歌碑がなぜ建立されたかの謎は解けない。
玉龍の孫の一人が彫刻家の後藤清一(1893-1984)。
仏像や母子像など慈愛に満ちた作品が多く、木内克と共に茨城を代表する彫刻家だ。
三浦屋の跡地の前に平成元年(1989)「幼影」が建立された。








