山村暮鳥の墓@江林寺墓地内(水戸市松本町)


山村暮鳥は晩年の詩集『雲』に収められた一篇
〈おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきさうぢやないか どこまでゆくんだ ずつと磐城平の方までゆくんか…〉。
がよく知られ《雲の詩人》とも呼ばれる。
≪本名=小暮八九十(こぐれ・はくじゅう)1884(明治17)年—1924(大正13)年》は 群馬県に生る。聖三一神学校卒。キリスト教日本聖公会の伝道師として東北各地を転任、水戸ステパノ教会在任中に津川公治(1902-1959)と知り合った。
津川は水戸中学卒業後、東洋大宗教哲学科学び「いばらき新聞社」に入社し、
主に学芸欄を担当する記者として活躍した。
地元の茨城や東京の文学者・美術家と幅広い交流があった。
特に小川芋銭を尊敬し『画聖芋銭』(昭和18年・宮越太陽堂)を刊行している。
同時に山村暮鳥を敬愛し個人雑誌『桃源』に慕鳥論を書き慕鳥の詩を繰り返し載せた。暮鳥と芋銭の交友も深く『雲』の初版本は小川芋銭が装丁した。
慕鳥の死後、暮鳥顕彰の最大の功労者と云える。
津川の自宅近くに浄土真宗の布教施設「真宗会堂」における伝道師・寺西恵然の法話の熱心な聞き手でもあった。
真宗会堂の仲間で彫刻家の後藤清一との交流もその頃始まった。
才能がありながら引っ込み思案の後藤を何とか表に出したく、水戸高等学校の学生であった後の美術評論家・土方定一や小林剛、画家の小川芋銭、詩人の山村暮鳥など多くの知人に紹介した。
大洗で療養中の暮鳥を二人で訪ねた際の思い出を後藤は“机もなく、リンゴ箱の上に原稿用紙をおいて詩を作っているような簡素な生活でした。発刊を予定していた『雲』の検印として「鳥」の字を刻して送る約束をしましたが、翌年には病状が悪化し詩集の完成を見ずに死去したので印は使用されませんでした。”と話した。

江林寺は徳川家譜代の家臣岡崎平兵衛が、藩祖頼房に香花の地を賜らんと願い出て、寛永4(1627)年に木町(後・桜町)に開山した。
寛文6(1666)年の藩の寺社整理で破却され、現在地に移された。
明治時代に衰運、現在その墓地を隣接の祇園寺(水戸市八幡町)が管理している。
