久昌寺遺蹟@常陸太田市稲木町

 

 

跡地に立つ「久昌寺遺蹟」碑(昭和15・1940年)建立

 

 

真弓山の寒水石(大理石・建築材として国会議事堂や偕楽園の吐玉泉井筒にも使用されている)の碑面裏に由来が刻まれてある。

 

 

碑の脇の説明文。

 

 

周辺の概略図(顎鬚仙人作)

ブログ「顎鬚仙人残日録」2021年04月18日・「久昌寺…徳川光圀公生母の菩提寺」により、水戸藩2代藩主徳川光圀が生母の菩提供養のために建立した「久昌寺」の創建地が、現在地から南西方向の丘陵地に在ったことを知り、常陸太田出身の友人の道案内で訪ねた。

 

 

水戸藩の二代藩主徳川光圀は生母・靖定夫人(谷久子、法号久昌院)は水戸城下の日蓮宗経王寺に墓所が定められましたが、光圀は延宝5年(1677)の十七回忌に際して墓所を水戸徳川家墓所に瑞龍山へ移すことにした。

この時水戸城下の経王寺を太田の稲木村(現・常陸太田市稲木町)にうつし「靖定山妙法華院久昌寺」と改称し、久昌院の菩提を弔う寺院とした。

 

開山時の旧久昌寺は仏殿、法堂、位牌堂、多寶塔、方丈、食堂、鐘楼、山門、浴室など巨大な建築物があり、寺領は500石を有していた。

開山から6年後には僧侶の学校である三昧堂檀林が設けられ、盛時には3000人もの僧が学んでいた。

また、光圀は京都から日乗を招いて旧久昌寺の院代を命じ、寺務の総括をさせた。

 

*久昌寺摩訶衍庵の開基の日乗上人が1649年(元禄4)1月1日から同16年2月15日までのほとんど毎日書き続けた「日乗日記」は、13冊1041 枚からなっており、光圀の西山荘隠居後の生活のほか、元禄時代の世相風潮や生活の実態、気象などといった豊富な資料に満ちた貴重な記録。

 

 

三方を小山に囲まれ、南が開かれた跡地。

現在は農地と農家が散在する。

向かって左(東方面)に三昧堂檀林などが連なっていた。

 

 

北側の奥は墓地となっているが、最近のもので旧久昌寺の時代ではない。

山の北側に「西山荘」があり、東側の通路は洞窟をぬけ西山荘への通路だったようだ。(この通路は後日試してみたいと思っている)

 

 

現在の常陸太田市新宿町にある久昌寺本堂。

 

幕末・維新の混乱期に旧久昌寺は荒廃。

明治3年(1870)に旧久昌寺の末寺・蓮華寺があった場所に旧久昌寺もうつし、両寺院が併合して、現在の常陸太田市新宿町にある久昌寺となった。

この時の久昌寺本堂は蓮華寺の茅葺きの小さな本堂を利用しており、旧久昌寺の仏具を配置することも困難な状態。

そのような時、太田出身で函館で事業を成功させた梅津福次郎が本堂再建のために6万5000円を寄付し、その費用で立派な本堂が建立された。