河和田城址@水戸市河和田町

 

 

河和田城址(報仏寺山門)

報仏寺は「歎異抄」の著者と目される唯円が、現在の寺地よりも南西約500mに開いた念仏道場が元禄2(1689)年に現在地に移ったといわれる。

 

 

河和田城遺構概念図(昭和60年現在)*水戸駅の観光案内所にて入手。

河和田城址は、北に天徳寺、西に河和田小学校、南西に八坂神社、南東に報仏寺などを含む東西約 510m、南北約600mにわたり、二重三重の濠や土塁をめぐらした戦国時代後期の平城の遺構がそれぞれの地に現存する。

 

 

広大な区域が県道59号(玉里水戸線)によって、南北に二分されている。

報仏寺脇の交差点、この辺りが大手口と目される。

 

河和田城は南北朝の時代、南朝延元元年・北朝建武3年(1336)頃に常陸大掾の家臣・鍛治彈正貞国(かじだんしょうさだくに)が築いたのが初めといわれる。

その子の貞基の時、下江戸の江戸通景に追放され江戸氏の支配下に。

この江戸氏は、かつて南朝方に属して活躍した那珂氏の子孫。

応永の33年(1426)江戸通景の子通房は水戸城を奇襲、時の城主・大掾満幹を府中(石岡)に追放、河和田城は家臣の春秋氏の居城となる。

天正18年(1590)、江戸氏が佐竹氏に滅ぼされるまでの約1世紀半、中妻33郷と呼ばれた水戸の西部を支配した。

佐竹氏が秋田に移されてからは、水戸には徳川家康の11子より頼房が入り、水戸藩の所領となり明治を迎える。

 

 

南端に位置する八坂神社。

鳥居の脇に野仏が集められて安置されて在る。

 

 

河和田小学校の敷地は、濠を埋め立てた跡地が大部分を占める。

反対側の「兵部屋敷」とは何の遺構?

この辺りの土塁や濠はかなり壮大で、戦国時代後期の姿を未だに留めている。

倒木が重なり、自然に生えた樹木が密であるが濠には水を溜めている。

戦国末期の土塁や濠がこれ程保っている例は稀らしい。

敷地は個人が所有しているのだろうが、公的に援助し保全すれば素晴らしい歴史遺産であることは間違いがない。

原状を確認する意味でも多くのに足を運んでほしい。

 

天徳寺は佐竹氏の菩提寺で、現在の祇園寺(水戸市八幡町)から正徳2年(1712)現在地に移された。

伝舜院跡と言われるが、

 

 

冠木門

天徳寺は岩間街道(県道30号・水戸岩間線)に直に面して駐車場が在るが、冠木門が在るだけで堂宇は見えない。門脇に土塁と堀が在る。

 

 

天徳寺山門

天徳寺は佐竹氏の菩提寺で、現在の祇園寺(水戸市八幡町)から正徳2年(1712)現在地の伝舜院跡に移された。

 

 

天徳寺本堂

火事で焼失後に文久2年(1862)に再建された。

 

 

 

山門から東に向かって、門柱や入り口の碑などを見つけた。

脇を渡里用水が流れている。

用水が設置された時、或は県道を拡幅された頃は、此方の通路使われていたであろう。

寺の参拝には順路が大切で、このルートの発見は新たな楽しみができた。