佐竹義宣と武将たち「中世佐竹氏の世界-千秋文庫所蔵文書から-」@茨城県立歴史館
4月29日~6月13日
佐竹氏は平安時代後期から常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺・旧佐竹村)を本拠とし、室町時代以来から常陸守護の家柄であった。
第19代当主の佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて秋田へ移封され、秋田藩初代藩主となった。
従って、佐竹=秋田と思いうかべるだろうが、発祥の地・常陸においては、今もって「佐竹は常陸」で「五本骨扇に月丸」の佐竹の家紋を掲げる神社・仏閣が多く、愛着が根付いている。
今回の展覧会は、佐竹氏に伝わった史料を収蔵・展示する「千秋文庫」のなかで、東京大学史料編纂所が近年に修理した「佐竹義宣に関連する古文書」等を中心に展観している。
*千秋文庫(東京都千代田区九段南2-1―32)
佐竹宗家に伝わった古文書・古記録・模写絵・古地図・古戦場絵図・城絵図・維新開国資料などの他、藩主所用の花押・印章類など約2300点が収蔵する。
佐竹家34代・佐竹義春の家令職を勤めた小林昌治氏は、当主より譲渡された資料を空襲の危機や戦後の混乱を乗り越え守り続けた。
後世に伝えようとの念で昭和56年(1981)に千秋文庫を設立した。
佐竹義宣の生涯
常陸・佐竹氏19代義宣は元亀元年(1570)佐竹郷に生まれた。
天正17年(1589)に父義重より家督を相続し、石田三成を介して豊臣秀吉との絆を強め、常陸国全域の支配を認められる。
天正18年(1590)江戸氏の水戸城を攻め落とし、府中(後の石岡)の大掾氏を滅亡させ、拠点を水戸に移した。
文禄3年(1594)の太閤検地に際し54万5800石の知行を安堵された。
秀吉没後の関ケ原の合戦《慶長5年(1600)》では、表面上は中立の立場を取ったが、その態度を良しとしない家康により、慶長7年(1602)5月秋田に移封を命じられた。同年7月に現地に赴くと、翌年から久保田城と城下の整備にかかる。家臣団も新進気鋭の者たちを要職に要職を任せるなど再編成。
検地や新田開発に取り組む一方、林業、鉱業も興すなど諸産業を育成に励む。
寛永10年、江戸において病没した。享年64歳。
天下統一の激変期から太平の世を迎え頃、義宣と武将の交流を書状などを通してうかがえる。
豊臣秀吉朱印状
豊臣秀頼黒印状/石田三成書状
徳川家康書状
徳川家光御内書/伊達政宗書状
黒田長政書状/藤堂高虎書状
(⁂何れも自筆で義宣宛)
御内書/将軍(大御所)が国持ち大名クラスに出す私信で、高級和紙である檀紙(大判)をもちいる。原則として書き止めが「候也」
朱印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、朱印を押捺したもの。書き止めが「候也」となるなど、上意下達、かつ権威的である。
黒印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、黒印を押捺したもの。書き止めを「謹言」とする場合もあり、上意下達だが、朱印状より権威的ではないとされる。
書 状/身分的にはほぼ同格の者同士で交わされた私信。書き止めは「「恐惶謹言」「恐々謹言」。
本展は文書が主体の地味な展覧会で、文書類を読解するのは難しいが、添えられた読み下し文で歴史上の人物に接することが出来るのは素晴らしいことだ。
江戸時代までは文書による情報の伝達こそが唯一の生命線。
インターネットで世界中と簡単に交流が可能な現代とは大違いであることを改めて考えるいい機会だ。










