例年より桜の開花が早く一斉に咲きだしたが、花の名所はコロナ禍で賑やかとはならず。
春爛漫のソメイヨシノもいいが、コブシの白い花とヤマザクラが常緑樹に映える景色に関心を持つようになったのは山上鎭夫さんによる。
山上さんは眼科医だが、古美術収集家として全国的にも知られた。
古美術収集のほかに、山歩き山野草を愛で、俳句を作り、絵を描き、陶芸に親しみ、クラッシック音楽、特にピアノ曲が好きで85歳でピアノを購入95歳で他界するまで趣味の世界に生きた人生の達人だった。
没後1周年に、水戸市大町のNHK水戸放送局1階のギャラリーで遺作展が開かれた。豊かな人生を物語る自然を描いた水墨画、陶器、句集、収集品の図録「古陶小集」などが展示された。
自然を師として生きた山上さんの生き様に共感する方が多く、感想文を新聞に投稿された方が何人もいた。
詩人の風間晶さんが1994年3月に「新いばらぎ」1994年3月に投稿文の一部を転載。
『紙が歌っている、土が歓びの声をあげている。つくづくそう思う。和紙の中から筆鳥が飛びたってくる、墨の情緒で雑林子の呼吸が肥痩の吐息となって和紙を歌わせている。そう思う。
〈春〉〈雑木芽吹〉の柔らかく生動する気韻の気配には作者が自然(じねん)の中で呼びとめようとした移ろいの美学がある。
春の野のやさしき草の名をしらず
と句集「草の実」中の視線は随筆の中にも散見していて、
「あの楢の芽吹きの真珠色から銀鼠のうすい緑に移ってゆく...私の最も好きな雑木林の魅力である。」
という。万葉のみかも山に誘かれた歌枕から、
楢芽吹く真珠の色の美わしく
光より早き小さき冬子鳥
と、小さいもの、ひかるものへの愛は限りなく優しい。
しかし、作品は情緒だけで描けるものではない。水の弾きに蝋を置いたり、皺をよせたり、浸みさせたたりした精進のあとに遅ればせながら、美しいと言われるものはやってくるのである。
雑林子の作品は折にふれて散見していたがいつも達治の詩を思いうかべる。
太郎の屋根に雪降りつむ
次郎の屋根に雪降りつむ
と。
日本人は職業以外を余技と言うが、イギリス人はアマチュアリズムと言って尊ぶ、なぜならそれらの作品は人格の最善の部分の表白として受容するからであろう。日本人は余った技として馬鹿にしてしまう。本当はそうではなく、全的な人間のその時々の表現なのである。寅彦の随筆における、賢治の童話における、茂吉の短歌における、槐多のしにおける、実篤の絵におけるような、砂漠のカナールにように最も深い部分の噴出なのである。しかもその憧れは不眠の力によって原石を截るダイアのブリリアンカットになって表現されるのである。
数十点の淡墨、淡彩の作品、数点の手びねり、を観るとこの自然の愛好家雑林子の温かい息づかいが弥生や縄文の感性をひびかせ、(もちろんその裏には激しい錬磨への執念があって)すでに絵画の世界ではなくて、荘子や老子の世界、あるいは、無量光の弥漫する生のいとなみの普通性へ、技能(メチェ)の問題では
なく、透明な媒体を通って柵を通り抜けてサンチマンを聴くことができよう。
(後略)
風間晶さんの本名は存じ上げないが「相馬画廊」「アートワークス・ギャラリー」「ギャラリー・しえる」などの画廊でご一緒する機会が度々あった。
詩人独特とも言える熱のこもった話しぶりや文章など、学ぶべきところが多々有った。
当時の茨城県内には「茨城新聞」「新いばらきタイムス」「常陽新聞」と地元3紙が共存、それなりの購読者があった。
「新いばらきタイムス」は地元密着の町ネタが多く、展覧会評の寄稿も多かった。
現在は「茨城新聞」だけとなってしまった。中央からの配信記事優先より地元取材を充実するよう願っている。






