神応寺と別雷皇太神@水戸市元山町
天正19(1591)年、佐竹義宣は一族からでて32代の遊行上人となった普光がその地位を退いているのを知り、水戸に招いて神生平(かのうだいら、旧藤沢小路・現在の梅香1、2丁目、南町)に藤沢道場を創建した。
藤沢山清浄光寺(神奈川県藤沢市)が豊臣秀吉の小田原攻めの戦火で焼失したので、新たな時宗の本拠地とすべく計らったらしい。
慶長7(1602)年、佐竹氏は秋田に国替えとなったが、藤沢道場と普光は水戸に残った。
やがて徳川家康の天下となり、清浄光寺が再建され慶長12(1607)年普光は藤沢に戻った。
つまり、天正19(1591)年から慶長12(1607)年までの16年間、神生平の藤沢道場は時宗遊行派の本山を兼ねていたということになる。
寛永10(1633)年に寺の在った神生平と鎮守の別雷神を祀った大坂明神に神慮の感応があるとし、神應寺と改称。
延宝8(1680)年、社寺改革・城下町の整備を進めた藩主光圀の命によって、現在地に移された。
水戸市立博物館所蔵、正保(1645~1648)~明暦(1655-1658)頃と言われる古地図。
中央の大阪町の左側に「藤澤」の記入があるので、寛永(1624~1645)年間か?
敷地を二分し旧鷹匠町に至る旧藤沢小路は無く、かなり広大な寺域だ。
「大坂明神」は何処に?
大阪町の南端「虚空蔵」の記入がある。
現在は西側の坂の途中「虚空蔵神社」はここに在ったようだ。
北の端には「八幡宮」現在地に移る以前はここに在った。
700年忌として建てられた「宗祖一遍上人像」
一遍上人(延応元年(1239年) - 正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖。
一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。
その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗である。
「蹴上げ観音」碑
雷除けで信仰を集めた蹴揚観音があり、かつては別雷大神を祭祀していたが、神仏分離令により、隣の敷地で独立した。
本地仏は現在も当寺で祀られている。
居合い術田宮流中興の祖といわれる和田平助正勝、天狗党として西上し、敦賀で切られた軍学者山国兵部共昌の墓、同じく敦賀で殉職した田丸稻之衛の墓所などがある。
◎追記
マエダ ヨウイチさんから。
「神応寺には大薩摩文太夫の墓もあります。太田蜀山人の狂歌「大薩摩その源の太夫との水戸から出たる江戸の顔見世」(この碑は見川の妙雲寺に現存)にも詠まれたほどの一世を風靡した水戸人です。わかりにくいけど探してみてください。」のコメントを戴きました。
有難うございました。
墓石も探してみますが、活躍のほども調べてみます。
別雷皇太神
雨乞い、雷除けの神として「水戸の雷神さま」として知られる。
本社は上賀茂神社こと賀茂別雷神社。
「大坂明神」として、大坂(田見小路、現北見町)に在ったが、寛永10(1633)藤沢道場と神生平の鎮守とし、神應寺境内に。
延宝8(1680)年、社寺改革・城下町の整備を進めた藩主光圀の命によって、現在地に移された。
明治の神仏分離により独立。
文政5年(1826年)の古地図。
昭和初期頃と思われる「別雷皇太神」。









