神崎寺から西の谷を歩く「ブラヨーちゃん№4」其の2

725日(土)「雑貨と珈琲の店・たけうち」17時集合。

 

 

神崎寺は真言宗豊山派の古刹で観音信仰の霊場。

本堂脇の観音堂。

 

1884(明治17)年に大工町から南端の妙法崎まで「神崎新道」が開通したことにより、境内は分断され敷地も縮小した。

 

江戸時代は神崎八景として、景勝の地であった。

 

 

『常磐公園攬勝図誌』《1885年、明治18年・松平俊雄(雪江)》の「妙法崎」で往時を偲ぶことが出来る。

画面の左上に水戸藩の儒学者・安積澹泊(1656 - 1738)の「妙法瀑布」の詩文が添えられてある。

 

安積澹泊は主君・徳川光圀の伝記と言える『義公実記』の編纂に関わった。

漢文で書かれた『義公実記』に、侍医・井上玄桐の筆録を加え、分かりやすく述べたのが『桃源遺事』だ。

その中に、神崎のどの辺りか分からないが、桑屋三夢と言う八十歳を越えた侘び茶人を訪ね、茶を所望した。粗末な道具で茶を呈したらしいが、物に拘らない光圀らしい出来事だ。

「日乗上人日記」の元禄12319日(旧暦)、光圀は神崎寺で歌を詠んだとある。光圀の詩文集『常山文集』巻5には、「神崎寺観桜」という題の漢詩が残されている。

山桜春引杖 歩扣梵王宮 埋緑松間雪 散花蘭若風

幢幡翻白動 瓔珞帯香濃 人世幾回日 頻斟楽可窮

 

二つの故事が同一時かどうか、歴史に疎い私は分からない。

ブログに書いている歴史的なことは、何かの受け売り、或いは孫引きなど、全てが引用で、間違っていたらゴメンナサイ。

 

 

観音堂の裏側にひっそりと在るのは、旧観音堂か?

 

 

千波湖と西の谷を望む、東南の角地に野仏が集まった一角がある。

以前は、西の谷から九十九折に登る小路に配置されていた。

今でも、その痕跡はあるが通路が塞がれてしまい、通行できない。

 

水戸石州流の茶人・大内適斎(昭和263歳没)は田見小路の自邸に茶室「聴松庵」を設けた。

「聴松庵」は後に「百之庵」(ヒャクシアン)と名を改め高弟の軍司素斎に譲られ、素斎は菩提寺の神崎寺に移建した。

 

この辺りが「百之庵」跡地と推定される。

その後も移転を重ね、現在は大子町袋田の渡辺家の邸内に移されているらしい。

 

 

 

分断された神崎寺境内の南端「妙法崎」からの眺めは、道路の西側の小高い岡の「神崎寺向山墓地」に立つとよく分かる。

 

「神崎新道」開通以前の参道は千波湖に面した南側の石段だった。

 

 

当時の参道とほぼ同じ場所と推定される、現在の西の谷。

 

 

笠原水道建設に使用された石切り場の跡は千波湖に面したところが多いが、西の谷にも残されている。

ここは特に湧水が多い場所で「水戸層」と呼ばれる岩盤の間から滴っている。

 

 

青川の流れを中心とした湿地帯を埋めたて、公園とする工事が始まって以来30年以上「千波公園西の谷緑地」は、一番奥に新なトイレも出来て一応の完成となった。

元・金魚養殖池、金魚坂まで繋げることが出来なかったのが残念だ。

 

1921(大正10)年、青川の池と湧水を利用して「小平金魚」「小幡金魚」による金魚の養殖が始まった。

紀州堀(東の谷)に「中村金魚店」の養殖池も在ったが、かなり以前に廃業した。

跡地は梅香トンネルに至る道路となっている。

 

1926(大正末)年、濠を埋め立て旧鳥見町と元山町を結ぶ道路を市会議員・小沼寅吉の尽力により完成した。

 

 

金魚池を眺める景観により「金魚坂」と呼ばれた。

写真右側は再開発でマンションとホテルとなり、景観がかなり異なった。

 

 

二つの「金魚池」は埋め立てられて「駐車場」に。

「金魚坂」の名を留めるだけ、中央の奥が「西の谷緑地」千波湖方面。

 

◎『桃源遺事』は徳川光圀に関する逸話などを集大成したもので,光圀の誕生に力を尽くした三木之次の孫三木之幹のほか宮田清貞・牧野和高らによって元禄14年(1701)に編さんされた、「西山遺事」と称するものもある。

逸話を豊富に盛り込んでいるだけでなく,本書だけが伝える事跡も多く,光圀の伝記史料としてすこぶる価値が高い。