神崎寺から西の谷を歩く「ブラヨーちゃん№4」其の1
7月25日(土)「雑貨と珈琲の店・たけうち」17時集合。
水戸城の第二外郭の濠、通称「西の谷」
千波湖から那珂川を望む八幡宮まで、南北に貫いた天然の土塁。
文政5年(1826年)の古地図の千波湖から大工町迄。
(絵図なので、正確さに欠けるが)
ほぼ同地点の1934(昭和9)年の水戸市地図。
神崎通りに並行し、妙法崎に至る「神崎新道」が1884(明治17)年に開通している。これに依って、神崎寺の境内の一部は東西に分断された。
神崎新道の開通により、南向きだった観音堂や本堂は順次、現在のような西向きに改まる。
1929(昭和4)年、茨城県内で開催の陸軍特別演習で天皇陛下水戸市行幸。
常盤神社参拝道路として、神崎寺から常磐神社の東門に至る道が急遽建設された。
神崎寺は水戸市天王町にある真言宗豊山派の寺院。
正式名は「笠原山 東光院 神崎寺」、本尊は大日如来。
創建年代は不詳、元亀3年(1572年)に宥賀和尚が中興。
寛政期(1789~1801)の神崎寺(『水戸の町名』156p~157pから)
観音信仰の霊場として観音堂に詣でる人が多かった。
観音堂の前に「神崎鋳砲所」の碑。
寛政期絵図の左上に「テッポウシ」などと記入された家が3軒並んでおり「三軒町」と呼ばれた時期もあるらしい。
この辺りに在ったと思われるが新道開通の際に分断されているようだ。
碑面には300門の青銅製の大砲が鋳造された、とある。
遅月上人分骨碑
遅月上人は、江戸時代後期に20年ほど常陸俳壇を指導した俳諧師。
碑文は水戸彰考館総裁の立原翠軒。
翠軒は備中笠岡(岡山県笠岡市)出身の遅月をあたたかく迎え、親しく交流した。
「妙法崎」『常磐公園攬勝図誌』《1885(明治18)年・松平俊雄》
「教主殿」と描かれる右脇に「神崎新道」が1884(明治17)年に開通している。図には新道が描かれていない。あえて旧景を残したのであろう。
1687(貞享4)年、妙法崎の大木の松が枯れたので、根本を掘り起こしと、鋳銅の経筒が見つかった。長承二年(1132)の銘があり、光圀にお目に掛けたところ、この寺は往古の古跡であるとの事で「神崎寺法経筒記」の一文を賜った。
◎経筒は平安時代末期に「末法思想」が起こり、経塚に仏法に関連する品々を埋めて、後世に伝えようとした。










