水戸の水道建設に関わった人々
竣工式において、技師長・岡田卯之助の工事経過報告。
中央の司会は土木課長兼水道工務課長・後藤直彦。
上市を含めた全市水道布設は水戸市の懸案であり、1914(大正 3)年に就任した川田市長は布設を企画し、地下帯水の状態などの調査を行ったが、実現するに至らなかった。
1924(大正13)年頃から、井戸水の減退・水質の悪化・悪疫の流行・防火上の危機など、水道の必要性が切実に認識されるようになる。
第8代の水戸市長・鈴木文次郎は那珂川伏流水を利用し、ポンプ揚水(渡里村高区・三の丸低区の両配水塔)という当時としては斬新な方式を採用して「全市水道問題」解決のため内務省の決裁をうけ1930(昭和5)11月那珂川中州において地鎮祭と起工式を挙行、1932(昭和7)年7月に竣工した。
重機が無い時代、全てが人の力で1年半の工期をもって完成したのは驚異だ。
右上・水戸市役所(現在の水戸京成ホテルの所)
右下・水道事務所と消防望楼(昭和5年完成・現在の水戸三井ビルの所)
水道完成を見越し、常設の消防部が出来たのは1928(昭和3)年。
左上・水源の中州での起工式。
左下・起工式で鍬入れする水戸市長・鈴木文次郎(就任期間・大正13年8月~昭和7年8月)。
明治後期から昭和初期にかけて上・下水道の設計の権威であった茂庭忠次郎を技術顧問とし、技師長に岡田卯之助を迎えた。
◎茂庭忠次郎、(1880年 - 1950年・水戸の就任期間・昭和5年9月~昭和7年8月)1880年 仙台に生まれ、1904年 東京帝國大學卒業。
1904年 東京市下水道設計調査主任・名古屋市水道技師・内務省土木局技師・日本大學高等工學校土木科長(初代)1930年・水戸水道部顧問として、全体の計画を立案する。1939年 日本大學工學部長(2代目)。
◎岡田卯之助
詳しい履歴は分からないが大正11年6月から大正12年5月まで、前橋市の水道の調査設計を委嘱されるなど、各地の水道に関与した。
水戸市水道技師長としての就任期間は昭和5年9月~昭和7年9月。
各地の水道建設に関連して多くの技術者がスペシャリストとして関わった。
水戸市に於いても多数の人達が各部門で採用された。
現在も大手の土木建築の技術者はプロジェクト毎に移動する。
昭和5年8月5日の茨城新聞(水戸の水道史から)
1929(昭和4)年秋にアメリカ合衆国で起きた恐慌は日本にも及び、日本経済を危機的な状況に陥れた時代に水戸市の水道工事が始まることになった。
職を求めた人たちが多数応募した。
「昭和恐慌」は優秀な人材を獲得できたこと、デフレにより資材価格が下落した。
など、予算的にも良いタイミングで、工事にとってはメリットが多かった。
多くの技術者が県外・市外の人物であった中で土木課長兼水道工務課長・後藤直彦(就任期間・昭和5年9月~昭和7年8月)は事務方と技術者集団を束ねる重要な役目を果たした。
後藤直彦は1876(明治9)年に現在の水戸市見川町に生まれる。
水戸中学(現在の水戸一高)卒業後、近衛兵として志願入隊、神宮警護にあたった。
1899(明治32)年に陸軍歩兵少尉八等官・正八位、1905(明治38)年、従七位勲五等として叙勲を受けている。
士官学校の卒業でなく、少尉まで昇進し叙勲を受けたのは稀な事例に思える。
除隊後、茨城県土木課で測量技師・土木技師として国道118号建設に携わる。
1922(大正11)年道路技師として正七位の叙位をうけている。
軍人から一転し、測量技師・土木技師としての技量を身に着けたことは勤勉な人柄であったのだろう。
1930(昭和5)年に水戸市役所の土木課長兼水道工務課長として招かれたのは、こうした経歴をかわれたのだろう。
多くの人材をまとめ、短期間で事業を完結させた力量は素晴らしいことだ。
上水道工事が1932(昭和7)年7月に竣工してから間もない、1936(昭和11)年に60歳で没した。
墓地は水戸市見川町「多寶院護国寺」







