水戸の地形・地質と水道建設
「ブラタモリ#61水戸編」(2017年2月)は水戸市内をブラブラしながら、幾つかのテーマを探る番組で、その都度、専門家が登場して謎解きをする。
井戸ライフ代表の西原昇治さんも登場した。
「笠原水道」に関連する地質や地層などは今回のメインと言える。
光圀が作った笠原水道は、笠原不動付近の湧水地から暗渠構造で総延長10・7㎞、低湿地の下市までの詳細が知った。
「神崎岩」(凝灰質泥岩)を使用し、隙間を作って岩樋の周りの湧水を取り入れながら送水するユニークな発想は理にかなっていた。
2年足らずの工期で完成させたのは、工区を分割し全区の工事を進める現代と同様な方式を取ったことと推測される。
「井戸ライフ代表」の西原昇治さんも登場し解説。
「笠原水道」に関連する地質や地層などは、水戸編のメインと言える。
1663(寛文3)年に完成した水道が、近代上水道が出来る1932(昭和7)年まで270年の長きに渡って(部分的ではあるが)使用されたとは驚きだ。
「水戸層」と呼ばれる地層は、関東ローム層の下10~15mまでは砂レキ層で、その下は泥岩の不透水層で水を貯え、崖際であれば湧き水となる。
下市の「笠原水道」は湧水を巧みに利用したが、上市の台地の住民は湧水を使用できるのは崖際の住民だけで、ほとんどは「井戸」だった。
1889(明治22)年、市制により水戸市誕生(人口約2万5千人・東京・横浜など全国で36市の1つ)した。
都市生活にとって上水道が不可欠だが、下市は近代の上水道ではないにしても「笠原水道」を利用した給水栓と消火栓の設置がなされていた。
上市の地下水は人口増による水量減退と、汲み取り式の便所など水質の悪化を招くようになる。
1924(大正13)年、衛生面と消防用水を考慮し全市水道への調査が始まる。
1929(昭和 4)年 7月の市内井戸数 2583個のうち飲料適は僅かに28.5%という驚くべき事実が判明した。
水質悪化、水量不足は市民の保建衛生に影響し、毎年少なからぬ疫病の発生をみている。
防火については、下市では水圧は低くても各戸に給水栓、街路に消火栓があったので延焼を防止するのに役立ったが、水道のない上市では消火用水の不足から延焼することが多く、明治以後における市の大火はいつも上市に限られていた。
水戸市の近代水道までの大火の主なるものは次の通り。
*明治40年 7月 3日、汽車の飛火により上市神崎から発火、折からの烈風により神崎観音堂を焼失、延焼11ヵ町におよび焼失戸数 189戸。
*大正 7年 3月25日、汽車の飛火により上市奈良屋町から発火、烈風と水不足のため上市目抜きの場所を横断して延焼、焼失戸数 496戸。
焼失建物の主なるものは裁判所、連隊区司令部、郵便局、高等女学校、新聞社、知事官舎、銀行など。
*大正15年 5月 5日、上市向井町1丁目から発火、井戸深度深く使用に耐えず、防火用水を使用しつくすも鎮火せず138戸を焼失して鎮火。
上記の経過をたどり、水戸市の上水道工事は1930(昭和5)年11月起工。
1932(昭和7)年7月に竣工した。
水戸市水道部「水戸の水道史」を基に「水戸時層学会」(オーサー:那珂川緑波)が制作した簡単な年表「水戸の水道概略史」
衛生面を考慮した上水道の役割が重要なのは勿論だが、消防用水としての使命も大きかった。市役所脇での放水試験。
低区配水塔の中央にバルコニー風の回廊がせり出している。
その上部の正面2箇所に施されたレリーフは、消防ホースのノズルが交差していることからも頷ける。






