水戸藩士・朝比奈弥太郎の旧居跡@水戸市柵町

 

 

 

 

徘徊老人の自転車による41日の街歩きは、水戸市下市方面。

水戸駅から水郡線の踏切を渡った右側で、マンション建設に伴う事前発掘調査が行われていた。

 

何にごとか?調査員らしき方に声を掛けて見た。

 

道路から少し離れているので聞き取り辛く、「江戸時代は朝比奈という家臣の屋敷跡で後に(明治時地代?)“川崎と言う倉庫”とみられる」とのこと。

 

現在の地表より2メートル位、掘り下げたところに杭が並んでいる。

ベニスや江戸を建設する際に使われた工法で、湿地に杭を打ちその上に石の土台を設置してから建物を作るやり方だろう。

 

 

文政5年(1926年)の古地図に「千五百石 朝比奈弥太郎」とある場所だ。

千五百石と言えばかなりの禄高だが、歴史に名を連ねる家系なのかは分からない。

二の丸御殿の柵町坂下門に近く、数軒隣に「中御殿」がある。

徳川光圀が生誕した三木之次の屋敷跡だ。

 

明治時代の「川崎」と言う倉庫についての推測だが、

 

水戸藩勘定方であった川崎八右衛門が1872年に東京に進出し川崎組を設立。

明治121879)年に出身地の茨城に進出し、水戸市黒羽根町に事務所を構えた。水戸藩初期からの廻船業が発祥だから、那珂川を利用した倉庫業を行ったであろうことは十分に考えられる。

社史などを調べれば分かるかもしれない。

 

後の、川崎財閥だが関西の川崎財閥とは異なり「東京川崎」或いは「川崎定徳」とも呼ばれる金融財閥で財閥解体後の現在まで金融不動産業として存続する歴史を誇る。

 

 

昭和30年代(僕の中高時代は)この地は水郡線から分離した引き込み線が有り当時は黒いダイヤと呼ばれた「石炭の集積所」だった。

常磐炭鉱で産出した石炭の中継地点としての役目を果たしていたのだろう。

 

石炭の衰退に伴い、貯炭場は廃止され駐車場として長らく使用されていた場所。

 

駅から数分の立地を生かしたマンション計画は当然かもしれない

 

 

工事広告には「三の丸3丁目の一部を含む」とあるが、ほぼ柵町4丁目。

この辺りは住居票表示の変更以後「三の丸」と呼ばれたりするが、柵町の方が

由緒正しいと思える。

 

調査員は「現地説明会を計画していたがこの様なご時世なので中止されました。後日、埋蔵文化財センターから報告書が出されるでしょう」と話してくれた。

新たな発見があることを期待し、何度か足を運ぼうと思う。

 

◎追記

この記事を書いてから「朝比奈弥太郎」について2人の友人からご教授頂いた。

幕末の“天狗書生の戦い”で重要な人物であることを知りました。

 

稲葉 寿郎 さんより。

朝比奈弥太郎の家は今川氏につかえた遠江掛川城主朝比奈氏の子孫で今川滅亡後武田を経て家康に仕え、初代紀州藩主の頼宣の家老となりました。

水戸に来たのはその分家で代々弥太郎を襲名。

幕末に於いては諸生派の中心であったため市川三左衛門と行動をともにし、そのため千葉八日市場で亡くなっています。

その分家であった父が処罰をうけたために不遇の幼少期だったのが、明治三大言論人の一人朝比奈知泉です。

川崎がここを占めたのは明治以降、はじめ川崎倉庫という名だったのですが、ご存知かと思いますが戦後は常磐倉庫ですね。

後年はもっぱら冷蔵倉庫だったようですが、初期は那珂川沿いの物資を搬入していたんでしょうか。

 

沼田吉治さんからは。

朝比奈弥太郎の屋敷跡ですか!

諸生党の大幹部で市川三左衛門、佐藤図書などと共に弘道館戦争に参加し、敗れて千葉県八日市場市で戦死。

祇園寺に墓がありと記憶しています。

 

マエダ ヨウイチ さんからは。 

石炭置き場は茨石です。国鉄の引き込み線がありました。

今でもその跡が見受けられます(今はマンションなどになっております)

川崎定徳のところは大谷石でできた倉庫が並んでいました。

*有難う御座います。大谷石の倉庫群、思い出しました。