血と掟 1965年松竹映画(湯浅浪男脚色・監督)

 

 

 

水戸市大工町の「CINEMA VOICE」を活動の拠点の1つとして活躍する、鈴木洋平監督を見て、水戸・松竹館の支配人から映画監督になった湯浅浪男を思い出した。

 

1965年頃、僕が勤めていた会社は青山で、直ぐ傍が「乃木神社」。

反対側に防衛庁(現在のミッドタウン)も在ったが、概ね住宅街で閑散としていた。

乃木坂を下って間もなく、プロレスラー力道山が経営する「リキアパートメント」が在った。

日本には少ない「ホテルアパート」で、ホテル風な3階建てのアパート。

力道山がアメリカ各地を転戦した際に利用した「モーテル」が原型で、短期・長期の滞在が可能だった。

その1室に、映画製作に乗り出していた湯浅浪男の事務所が在った。

僕の友人は湯浅氏の縁者で、事務所でバイトをしていた。

或いは勤めていたのか、とにかく、会社から歩いて5分位なので、昼休みに遊びに行ったりしていた。

 

その頃、元・安藤組組長安藤昇の自叙伝を基に湯浅浪男の脚色・監督で制作していた。

 

終戦間もなく、大学に進学した安藤が、仲間たちと不良学生グループを結成。

渋谷のやくざ、テキヤを相手に争い始め、やがて「安藤組」を結成するまでを描いた。

安藤昇の自叙伝の映画化で本人が演じた。

しかも、出所後わずか一年のデビュー作とあって話題となった。

配給権を東宝と競り合った松竹が獲得、当時としては空前の大ヒットとなった。

 

元とは言え、組長・安藤昇の画面写りの良い佇まいと存在感は、役者としても充分に通用した。

噂の本人が本人を演じるのだから、かなりセンセーショナルだった。

 

若き日の菅原文太・丹波哲郎も出演している。

その後、深作欣二監督による実録もの『仁義なき戦い』シリーズで御馴染みの顏となり、日本映画界の看板俳優となった。

 

湯浅・深作の両者が水戸出身と云うのは、今にして思えば奇遇だ。

 

安藤はその後、俳優、小説家、歌手、プロデューサーとして活躍したが、2015年に89歳で没した。

 

湯浅はその後、『逃亡の掟』など『掟』をシリーズ化し成功、余勢をかって、台湾の映画界に進出した。

先見の明があったが、1991(平成3)年に亡くなった。

波乱の人生だったが、横浜市のメモリアルパークに眠っている。