笠原水道
ブラタモリ#61水戸編、其の参
笠原水道に使用された石の産地を探してやってきたのは、備前町先の崖下。
線路沿いに多数の洞穴が在る。
常磐線の「スーパー・ひたち」が通過。
この洞穴こそが、岩樋の採石場。
通常は入れないが、特別の許可を得て内部に。
●この洞穴は古代人の住居跡・水戸城に通じる隠し通路とか言われるが、笠原水道の採石跡で、僕が子供の頃は自由に出入りできた。
太平洋戦争の後、乞食の住居として使用されたことが有り、入り口をコンクリートで塞いだ所もある。
*このどれかに「ヒカリモ」が生息している。
ヒカリモ(光藻)は、日本各地の水のきれいな洞窟や池に生息する藻類で、暗所で光を反射させることで黄金色に光って見える。
江戸時代に採掘したノミの跡が今も残っている。
石は「凝灰質泥岩=火山灰を含む海底の泥が固まったもの)」。
軽くて運びやすく湿地帯に沈下しない、とても都合が良い石だった。
「あるものを有効活用」が水戸藩の信条。
水戸の町を支える岩盤なので、崩れないよう間口は狭いが奥行きが30m位。
当時の工事の再現アニメ。
●軽い石で剥がれやすく加工がしやすく。1人が持ち運びできる大きさで30キロ位に切り出す。置いても沈み込まず耐水性もある。採掘現場から工事現場まで目と鼻の先位の距離。近場でこの様な石を見つけられたのか?
山師(鉱山学に詳しい人物}が差配したのだろう。との見解を水戸マニアの会「笠原水道・龍の道ウォーキング」で西原昇治さんから聞いた。(西原さんはブラタモのアドバイザーとして番組に名前も載っている)
更に、工区も分けて同時進行したので1年と云う短期間で完成したのであろうとも話された。西原さんは「水と地質」の専門家で、理論でなく現場で得た観測データと作業に裏付けられた見方は的確だ。
第9代藩主徳川斉昭が天保12年(1841)創設した。
日本最大規模の藩校「弘道館」に。
『梅まつりの四日間しか表門は開くことはないが、今回は特別に開扉、』と説明されていたが。
●僕が水戸二中に通学していた頃は常時開かれていたし、弘道館の濡れ縁で昼寝も出来たのだ。
弘道館の展示室で「大日本史」を見る。
徳川光圀が編纂を始めた歴史書で、初代から100代までの天皇の治世を記した402巻。編纂には250年の月日が掛かり明治まで続いた。
資料集めに藩士の彰考館職員が全国に出向いたのが、光圀の「黄門様の全国行脚」になったのであろう。
全国の藩校の教科書にも採用された。
弘道館正庁には徳川斉昭の「弘道館記」の拓本。
光圀の業績を讃へ、その結果として弘道館を設立した。との意。
徳川斉昭(烈公)が弘道館を設立と同時期の天保13(1842)年に開設した偕楽園の表門に。
●現在は東門から入る人たちが多いが、東門は1874年に園の一部に常磐神社が創建されてからの通用門。
門を入って竹林・杉林の「陰」の世界を抜けて好文亭に至り、南面する梅林の「陽」の世界を観るのが正しい方法。と云うように案内人は話された。















