ブラタモリ#61水戸編、其の弐

 

 

 

水戸藩は江戸と国元の水戸の両方に本拠地を構えたので藩の財政は厳しく、「あるものを活用する」倹約の精神で城下の整備にあたった。

 

城下町なのに石垣も無ければ天守閣も無い珍しい城下町。

城下を拡張するのも自然の地形を利用した。

 

 

 

南町広場から案内人の小野寺淳さん(茨城大学教授・歴史地理学)が加わる。

 

小野寺さんは江戸時代の地図を研究している。

 

水戸城は、北に「那珂川」南に「千波湖」に挟まれた台地の上に形成された。

 

 

 

城下町を拡大するために新たな濠を作ることに。

この図の④と⑤

 

佐竹時代の西の端がこの辺りで、南北に貫く太田街道が境界。

 

 

 

紀州堀・今は「梅香トンネル」につながっている。(南町から千波湖方面)

この、向って左側が濠の跡、

 

 

 

南側から北側の濠の跡を眺めると、(216.高橋が撮影)

埋め立てられたが、今でも数メートルの高低差がある)

 

旧鉄砲町の通り、現在の「五軒市民センター」前の通りに作られた濠なのだが、(今では痕跡もない。)

 

 

 

その延長に気象台横の崖に連なる。

「あるものは利用する」の精神。

 

●⑤のルートについて、番組では触れていないが現在の「西の谷」。

金魚坂を経由し、栄町~八幡宮に至る経路。

 

 

 

城の東側の湿地帯を埋め立て拡大することに。

 

湿地は飲料水の確保が難しく、新たな水源を探すことに。

 

 

選ばれたのが「笠原の湧水」を使用した水道。(末尾に笠原水道の解説付けました)

 

 

案内人の 安藤寿男さん(茨城大学 地質学・古生物学教授)。

 

 

湧水は、透水層と不透水層地層の間から流れ出る。

 

●この地層の話と笠原水道に関しては水戸マニアの会が主催する「笠原水道・龍の道ウォーキング」が122日(日)に開催され、水の専門家の西原昇治さんと、茨大の天野先生の話を聞きながら実地踏破をしたので理解が深まっていたので納得。

 

 

湿地帯を崖線沿いに暗渠の岩樋を使用して通水したが、そこには逆転の発想が。

 

 

 

 

水を漏らさずではなく、隙間を利用して湧水を取り込みながら流量を増やし通水する、これまた今回のテーマに沿った考えの実践例。

 

 

 

●笠原水道

 

 

 

2代藩主徳川光圀は藩主就任直後の寛文2年(1663)町奉行望月恒隆に下市の水不足に対処するための水道設置を命じた。

調査に当たった平賀保秀は笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当した。笠原から逆川に沿い藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、備前堀を銅樋で渡して市街に入り、細谷まで全長約10kmの水道が翌年完成する。

 

以後、街の人達の共同管理により運営され、昭和7年、那珂川を水源とする、水戸市近代水道の完成によって、笠原水道は幕を閉じた。