ブギウギハウス・大内好美さん、
サントピア水戸の時代への挽歌 其の16
この連載を間もなく終了するに当たり、思い出す人などを何人か。
ダイエーからサントピアの計画に長らく携わった相馬画材の相馬武男さん。相馬さんの下で事業を推進した、共同企画・サントピア企画室長・用田貞夫さん。
東京からの出店者をまとめサントピアらしいコンセプトをたてた指導者、バツの松本瑠樹さん。
ナショナルブランドに伍して健闘した地元のセレクトショップ。
この人たちが、サントピアを支えたと言っても過言ではない。
その一人が大内好美さん。
大内さんとの出会いは定かではないが45年前頃か?
「メンズカメヤマ」の店員だった頃で、裏南町に在った「抗木ビル」の「ミルチェ」か「ベストベッツ」辺り。
現在の「アットワーク」の本社ビルの所に在った2階建の「抗木ビル」
飲食関係の店が4~5軒あった。
表通りには、カメソーが開店していたか、未だだったか?
とにかく裏南町はこれから何かが始まりそうな洒落た空間だった。
野球帽を被った元気な青年はそれから間もなく、サントピアに「ブギウギハウス」と言う名の小さな婦人服屋を始めた。
それまで紳士服屋だったが、婦人服の可能性を見出したのか?或いはその頃から紳士服の安売り店が出始め、既存の洋服店の衰退がはじまった。。
「サントピア」はダイエー水戸店誘致の副産物として誕生したが、開店前に迷走、松本瑠樹さんを迎え、東京の先端の店が入居したが、水戸の消費者はついいて行けず、あらかたの店は1年位で撤退した。
バツの松本さんと「YOU」の織本さん関連の10店舗位は残ったが、歯抜けの状況になってしまった。
企画室長・用田さんは水戸市内の元気のいい若者に好条件で出店を勧めた。
お金はないが、やる気のある人達が次々と集まった。
大内さんは彼らのリーダー格であっという間に店を拡大し、ビル内に8店舗を構えるほどに急成長。
繊研新聞』等にも何度も取り上げられ、カリスマ的存在となった。
仙台のファッションビル開店に伴い、出店の誘いを受ける。
仙台進出と共に社名を「YOコネクテカンパニー」と変更。
マークはベンツの三ツ星を思わせるような、〇の中にYの字。
当時、車に憧れ若者は多かったが、成功のシンボルとして大内さんは車を買い漁った。ベンツ・フェラリーなど1千万円クラスの車を次々と手に入れ、車検を更新することなく乗り換えた。
仙台の店も軌道に乗って8店舗に増え、水戸と併せると15店以上となった。
サントピア開店が1978年だから1980年から1990年にかけての時期だろう。
水戸駅ビル・エクセルが1985年に開業し、駅前の丸井と共に駅中心に移動が始まり、サントピアの進撃も一段落。
丸井は1993年東側の再開発ビル移転、駅ビルを中心とした動きと成り、南町や泉町の衰退は顕著なものとなりつつあった。
駅ビルなどに入居するのは地元の店舗にとって保証金等が高額でハードルが高かったが大内さんは「45RPM」のオンリーブランドで出店した。
駅ビルの「45RPM」は内装も凝って坪数が在ったから、立派な店構えで利益を生み出すのは難しかったのかもしれない。
ファッションビルへの出店、大屋さんは儲かるが、テナントの利益はなかなか出ないようだ。
2007年にサントピア閉館後、大内さんは水戸市川和田に郊外店を出店したりしたが、何年か前に全ての店を閉鎖した。
数年前から那珂市に畑を借り農業にいそしんでおられるらしい。
やりたいことをやって、晩年は気ままに農作業、素晴らしい人生だ。
●この一連の記事は高橋の感想と書き込みの有ったメッセージを転載してあり、登場人物に取材し、事実の確認はしていないので、単なる「お話し」として読んでいただきたい。
