「国友鉄砲の里資料館」@長浜市国友町

湖北の観音様を訪ねる 其の5

 
 

長浜の観光地図に「国友鉄砲の里資料館」というのが、面白そうだから行ってみようと。

 

  

 

昭和55年(1980)、自治会の姉川リゾートリバー計画に端を発して、草の根の労働奉仕活動が発端で昭和62年(1987)にはこうした国友の歴史を伝える核として「国友鉄砲の里資料館」が開館した。という稀なる博物館だ。

 

 

先ず1階で歴史をDVDで鑑賞。

江州國友(滋賀県長浜市)は古くから刀鍛冶が有名な土地だった。

1544(天文13)種子島に伝わった鉄砲を知った将軍足利義晴が鍛冶氏國友善兵衛に鉄砲の製作を依頼したのが、國友鉄砲鍛冶の始まり。

 

1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、織田信長は日本で初の鉄砲を使用した戦を行った。これは國友鉄砲鍛冶の製作で、火縄銃ブランドの地位を確立した國友鉄砲衆は、信長の下で量産体制に入った。

 

信長亡き後も豊臣秀吉、徳川家康の庇護のもと成長し、江戸時代には幕府直轄の銃砲製造所となった。

鉄砲の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいた。

  

 

鉄砲は、銃身を作る「鍛冶師」銃床を作る「台師」と引金や火ばさみ部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人(分業)で1挺の鉄砲が出来る。また、彼らは、年寄・年寄脇・平鍛冶と組織をつくり大量の鉄砲の注文に対応した。

  

 

鉄砲は口径によって細筒(小筒)・中筒・大筒・短筒・脇差鉄砲等幕末まで制作し、現存する火縄銃の大半は江戸時代中期から後期のもの。

見たことも無いような、大きく重いものもある。


 
  

火薬入れ、弾丸、等の付属品も展示されている。


 
  

国友の鉄砲鍛冶は全国に広がった。

常陸の国の水戸・笠間・土浦にも。

水戸や笠間の「坂場」はその末裔。

 

「戦(いくさ)」のなくなった「江戸時代後期」は「金工彫刻」「花火」へと「事業形態」の変更を余儀なくされた。

 

茶室の灯具に使われる「短檠(たんけい)

 

徳川斉昭が編纂した「諸物会要」に灯具の「ねずみ 短檠」があり、国友一貫斎が納入した。現物が失われその図を基に復元された。との説明。

思わぬところで水戸の話。


追記・稲葉 寿郎さんからのコメント。

●国友家には水戸家が請うて分家があり水府系纂に国友家の名があります。

国友家は水戸家鉄砲指南役です。この水戸国友家に師事した宮田栄助がはじめた宮田製銃所は現在のミヤタサイクルにつながります。

●鉄砲衆集団として活躍した雑賀衆の棟梁の後裔・鈴木孫一がその後水戸家に仕えて重臣となったことも、きわめて重要なことですね。

なぜ水戸家に鉄砲に縁ある二つの家を預けたのかが理由が知りたいところです。鈴木家は諸生派だったために幕末悲惨な末路をたどり、本家筋は水戸を離れざるを得ませんでした。

●慶喜公の最側近として原市之進と並び称せられた水戸藩士梅沢孫太郎も水戸国友家出身。鉄砲だけでなく、儒学者もでて国友尚克は弘道館教授頭取代になって常磐共有墓地にお墓があります。

分家の国友家は鉄砲鍛冶を越えて水戸藩にかなり定着しています

 

旅は予定以外に楽しいことに巡り合う。