彫刻家・後藤清一が人生問題に悩み東京美術学校牙彫研究科を中退した大正9年(1920),旧制水戸高等学校が全国13番目の官立高等学校として設立された。水戸高等学校は船舶事業で一代にして巨額の財を築いた茨城出身の内田信也の寄付金百万円(現在の金額で百億以上だろう)を基金として、水戸郊外の東茨城郡常盤村(現・水戸市東原町)に5万坪の敷地を得て開校した。
文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置され、学生の4割が東京出身、3割前後が地元出身であった。
旧制高校中最も「蛮カラ」の雰囲気の強い学校として知られ、一高に次ぐ大型の寄宿舎「暁鐘寮」(ぎょうしょうりょう)が設置されたのも特色だ。毎年ではないが、卒業生の集いがあるようだ。
マントに高下駄姿の水高生は、街頭ストームや寮の記念祭でバンカラぶりを発揮したが、市民には愛され親しまれていた。
年齢的には現在の高校生と同じだが、大人として社会から認められた存在だった。
水高出身者は各界に多数の人材を輩出しているが、俳人の金子兜太も水高出身で「水高俳句会」に属していたと、最近になって知った。
有名な俳人は学生時代から俳句の道を志した人が多い。
今なお、若々しく、自由な感性は水高卒らしい雰囲気を感じた。
僕は、戦後間もない頃の水高生を見聞きした記憶が若干あるが、今の高校生と同じくらいの年齢なのに、大人の様だった。
戦後の学制改革で昭和24年茨城大学文理学部となり移転した。
跡地の北半分は昭和40年に国立水戸病院となるが、平成16年に茨城町に移転した。
さらに、その跡地は北水会医療グループの手で、医療・福祉・健康の総合センターに生まれ変わりつつある。
後藤は水戸高等学校の学生であった、土方定一(1904-1980)や小林剛(1903-1965)とも知り合いになった。
両者は後に東大文学部美術史科に進み美術史家となった。
当時の状況について土方は『茨城の美術史』(昭和47年、茨城美術博物館編)の中で「近代美術と茨城」と題して次のように述べている。
日本の近代美術と茨城の関係については、ぼくとしていろいろな回想がある。はじめに私事を述べることを許していただくとして、ぼくは旧制水戸高校の生徒として水戸に御厄介になっている。その間、中村彝(明治20年-大正13年、1887-1924)の出生地といわれる水戸市上市寺町7番地を探そうしたり(もちろん、生家などはなかったが)、小川芋銭(明治元年-昭和13年、1868-1938)の牛久付近の茫洋たる景観が好きで、しばしば訪れた。その頃の土浦市はわかさぎの屋台が並んでいて、その焼いた匂いがただよっていた。当時は、美術史専攻するにいたるとは考えていなかったが、「エロシェンコ氏像」(大正9年、東京国立近代美術館蔵)など、この盲目のエスペランテイスト=童話作家であり、盲目がいつも示す内面凝視の孤独で、人なつっこい肖像をニュアンス深く中村彝によって描かれているのが忘れ難くて、その出生地を探したりしていた。小川芋銭については、そのころ「いはらき新聞」の文化部長をしていた津川公治が小川芋銭と親しく、ぼくらの文芸同人誌に、小川芋銭の水墨色紙を後藤清一に木刻していただいて、オリジナル木版画を挿入したことがある。いまもなお健在の後藤清一で、そのころ、後藤清一の「微笑している少女の首」を倉田百三が新聞で激賞し、ぼくらもこの「薇笑している少女の首」にかすかなかすかな感動を抑えきれなかった。このころの後藤はユーゴの彫刻家メシュトロヴィッチ(1883-?)に憑かれておられたようだ。仏像彫刻に移行される前の後藤清一であるが、この「微笑している少女の首」の所蔵者が不明であったが、最近、倉田百三の遺族が所蔵されているのがわかったことは、よろこびである。この「薇笑している少女の首」はロダン、ブールデル、マイヨールといったフランス近代彫刻の流れとは別個な伝統を示し、その後も後藤清一の伝統は、全く別個な造型の追求となっている。 (以下略)
土方の云うぼくらの文芸同人誌は『彼等自身』といい船橋聖一や小林剛も同人であった。
*『ウィキペディア(Wikipedia)』には
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、美術評論家、美術史家である。
岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学卒。1930年ドイツに渡る。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1973年菊池寛賞受賞。
全国美術館会議会長を務め、現代絵画を初めとした画集解説や、美術全集などを編集・監修、新潮社<日本芸術大賞>の選考委員であるなど、長く美術評論界に君臨した。著名な弟子に美術史学者では酒井忠康など、評論家に海野弘がいる。
補足
「ぷらら」のブログが閉鎖された、「アメブロ」に移った際に移動できなかった以前の記事を順次再録。(2009年06月15日 記載)


