「徳川慶喜」展@茨城県立歴史館

27日~322

  

今日から3月に入った。水戸の梅祭りは〔第2観梅デー〕として野点茶会〈石州流〉なども用意されていたが、あいにくの雨。

梅の季節は季節の変わり目、雨も嵐もある。

 

満開の花もあれば、蕾もある。

桜と違って、春の魁。

天候や咲き具合、それぞれに応じて愉しむのが梅に対する感じ方と思う。

 

322日まで茨城県立歴史館で「徳川慶喜」展が開催されている。

 

 

サブタイトルに、

『正統なる英傑(カリスマ)か。偉才の異端児(アウトサイダー)か。』

とあるように、家康以来の資質、教養に関して言えば家康、吉宗を遥かに凌ぐと言われた徳川15代将軍、慶喜 《1837(天保8)年~1913(大正2)年 77歳》。

 

将軍に就任し、果断に幕政改革を進めたが,将軍在位1年で江戸開城への道を開き,水戸ついで静岡で謹慎し、後半生は政治的沈黙を貫いた。

 

 

江戸の無血開城がなければ、内乱は避けられなかったろうし、列強の植民地になる危険性もあった。

  
 

 

背広の上下を、勤王の志士風に着こなした姿は、将軍とは思えない。

幕府と朝廷との板挟みに会いながら、京都を舞台にして苦闘を続けた。

 

 

ヨーロッパの先進性を十分に承知し、時代を読む眼力に富んだ傑物であったのは間違いない。

  

 

フランス軍の軍服を着用し、自らがフランス料理を振る舞い、各国公使との交流に取り組むなど、 伝統的な将軍のあり方を打破した。

 

1867年の「パリ万博」に弟昭武を将軍の代わりに派遣した。

昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら、当時最高の知的エリートの人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになる。

渋沢栄一は、後に日本の実業界の父と言えるほど数多くの会社を設立した。

今でもかなりの会社が当時のまま、または合併などで名称を変えつつ大企業として存続している。

「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、財閥を形成しなかったことも渋沢の見識だ。

徳川慶喜は間接的に今の日本企業社会を作らせたことになる。

渋沢栄一も、何かと面倒を見てもらった慶喜に深く感謝し、後年、慶喜に対する悪い評論を払拭すべく、『徳川慶喜公伝』(全7巻)を刊行した。

*現在・常陽史料館で展示中。

 

 

徳川慶喜は、江戸の火消しの親分である新門辰五郎と仲がよかった。

辰五郎の娘・お芳が慶喜の側室だった。ともいわれ、慶喜が最後に京都に出向いた際は、高齢である辰五郎も部下を率いて警護役として従っている。

 

 

徳川慶喜は評価が難しいとされてきた人物。

慶喜という人物を再評価してみる必要があるのではないか。

評価というものは、時とともに変わるものだ。