「あこがれの空へ―民間パイロットの先駆け 武石浩玻―」@水戸市立博物館
ライト兄弟が有人動力飛行に世界で初めて成功したのが1903年、今からわずか112年前のことだ。ライト兄弟以後、飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。
茨城県那珂郡勝田村勝倉(現・ひたちなか市勝倉)出身の武石浩玻(1884年- 1913年)は1902年(明治35年)、茨城県尋常中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒業後に渡米。
職業を転々としながら放浪を続け、イェール大学に入学するも中退。
1910年(明治43年)、ユタ州ソルトレイクシティで『ロッキー時報』という邦字新聞の主筆を務めながらユタ大学に通学していたが、この時、フランスの飛行家ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志す。
当初はライト飛行学校に入学したが、1912年(明治45年)2月にカーチス飛行学校に転じ、同年5月、飛行免状獲得。1月に合格した滋野清武、4月に合格した近藤元久に次ぐ、日本の民間人として三番目の飛行家となった。
1913年(大正2年)4月、日本に帰国。同年5月4日、大阪・京都間の都市間連絡飛行に挑んだ際、京都深草練兵場への着陸に失敗し墜落死した。28歳。
民間飛行家として最初に日本の空を飛んだ人物であり、民間飛行家の最初の犠牲者でもある。(Wikipedia)
操縦席に座る武石浩玻
墜落した武石浩玻の飛行機
今回の展覧会は、当時の写真や墜落した機体の操縦輪や車輪なども展示されている。
時速70キロ位だったが、目視による飛行なので、事前にルートを歩いて景色や建物などを確認する必要があった。
操縦席は、木の梯子状の所に座るだけで、身体を覆う設備も付いてない。
安全性は殆ど無いような乗り物だった。
それでも、空を飛ぶと云うことだけで大勢の観客が押し寄せた。
衝撃的な武石の最期に日本中が騒然とし、盛大な葬儀が営まれた。
それらは、日本の飛行機に対する熱を一層高めるものとなった。
墜落死から間もなく、郷里の水戸では記念像の建立が計画された。





