佐伯祐三アトリエ記念館@新宿区中落合

  

 

訪ねたのは129日、イチョウの大木が黄葉していた。

 

20代の頃はフランスに憧れた。パリを描いたユトリロやモジリアニに漠然とした興味を感じた。物心がついてからアメリカ的な生活の願望は強かったが、文化はヨーロッパのほうが勝っていたように感じていた。

 

日本人では佐伯祐三(1898-1928)の描く、ポスターが貼り尽されたパリの街角、近郊の村落や教会、など荒々しいタッチで書きなぐった、古き良き巴里を偲べる画面と30歳と云う若さでパリに客死したという夭折の画家の印象などから別格の存在に思っていた。

ほぼ同じ年代に活躍した中村彝と佐伯祐三。

佐伯が中村に私淑したことによるらしいが両者のアトリエは近い距離にある。

当時の下落合は郊外の農村地帯で、住宅地となった現在も農道がそのまま残された感がする。

「佐伯祐三アトリエ記念館」は袋小路の突き当りで、近くまで行きながら見い出せない程、細い路地裏。

 

佐伯祐三は明治31年(1898)大阪の浄土真宗光徳寺の二男として生まれた。

大正7年(1918)東京美術学校洋画科入学。

大正9年(1920)東京銀座の象牙商の娘、池田米子と結婚。

大正10年(1921)アトリエが完成、私淑した中村彝のアトリエが近くに在ったのが、この地を選んだ動機らしい。

大正12年(1923)に家族と共に神戸港からパリに出発。

大正15年(1926)健康状態がすぐれず、帰国し下落合の自宅・アトリエに戻る。

日本の風景などを描くが飽きたらず、昭和2年、病身をおし家族3人で再度フランスに渡る。

再び訪れたパリでは以前にも増して制作に熱中し、厳冬期でも

一日中戸外で描き続ける日を重ねた。

 

昭和3年(19288月死去、間もなく娘も6歳で病死。10月に妻・米子は

2人の遺骨を抱えて帰国、大阪の実家光徳寺に埋葬された。

 

妻の米子は昭和47年(197210月に死去(享年75歳)するまで、自ら画家としても活動し、このアトリエ兼住居で暮らした。

 

没後、この地は昭和50年(1975)建物を撤去し「新宿区立佐伯公園」として開放されていたが、平成22年(20104月当時の設計図を基に一部を復元「佐伯祐三アトリエ記念館」として開館した。

 
  

ライフマスク。

 

写真パネル、「下落合風景」の写真展示、佐伯が描いた地点と考える所の現在の写真、略歴・年譜など展示されているが、若干の物足りなさを感じた。

とは言え「土地の記憶・街の記憶」として、この様な復元事業は意義のあることだ。