今回も、野口嘉則さんのメルマガの“続き”を紹介しますね。
 
このメルマガの内容は、
僕が以前、野口さんのセミナーを受講していた時にもらったものと同等の内容ですが
初めてこのメールを読んだ時は
まさに“衝撃的”でした。
 
長年の疑問が一気に吹き飛んだ感じがしました。
 
 
 
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こんばんは、野口嘉則です。
 

自我の確立をしないまま、
他人の気持ちばかりを大切にしようと
して頑張っちゃうと、
 
自分らしい生き方をすることが
できないので、
心の余裕がなくなってしまう、
 
というお話もしました。
 

今回も引き続き、
 
「自我の確立」について
お話ししますね。
 

僕たちは
自分の欲求や感情を大切に
できるようになって初めて、
 
他者の欲求や感情をも
「無理なく自然に」大切にできる
ようになります。
 
つまり、
他者と豊かな人間関係を
築いていくためには、
 
まず自分の欲求や感情を大切に
できるようになることが必要なのです。
 

飯田史彦さんが
『愛の論理』という本の中で
次のように述べておられます。
 
「他人を愛するためには、
まず自分を愛する必要がある」
 
「自分自身を十分に愛している人
だけに生じる『心のゆとり』が、
他人を愛する原動力になる」
 
「誰か他人を愛するためには
エネルギーを必要とし、
そのエネルギーは、
まずは自分自身を愛しているがゆえに
自分の内部から生じてくる」
 

また、この本には、
心理学者たちの言葉も
いろいろ紹介されています。
 
「自分自身を愛することのできる人が、
相手を愛することができるのです」
(スーザン・キャンベル)
 
「自分自身とのよい関係は、
他人に対する愛や寛容および分別の
ための、一つの条件である」
(メラニー・クライン)
 
「他の人の世話係から
自分自身の世話係へと、
思いきった役割転換をやり遂げると、
あなたの相手に対する態度は
バランスの取れたものになる。
人は、健全で、バランス感覚の良い
人間になるにつれて、
より健全でバランスの取れた
パートナーを惹きつける」
(ロビン・ノーウッド)
 

ロビン・ノーウッドは、
 
「他人の世話係になるのではなく、
まず自分自身の世話係になりなさい」
 
と言っていますね。
 

つまり、
自分の欲求や感情を大切にし、
自分自身に対してしっかりセルフケア
をすることを推奨しているのです。
 

トランスパーソナル心理学の
理論的支柱を打ち立てたケン・ウィルバーは、
 
人間の心の成長過程を
次の3段階で説明しています。
 
プレ・パーソナル
   ↓
パーソナル
   ↓
トランス・パーソナル
 
 
 
プレ・パーソナルとは、
幼児期の段階です。
 
自我が確立されていないため、
周囲と自分との間の境界があいまいで、
周囲の環境に対して無防備です。
 
いい意味でも悪い意味でも、
親や環境からの影響をダイレクトに
受けてしまいます。
 

次のパーソナルは、
自我を確立する段階です。
 
自分と他人の間に
明確な境界線を引き、
自分という主体を確立します。
 
境界線がしっかりしてくれば、
周りからの悪い影響も
受けにくくなります。
 
つまり、受ける影響を
取捨選択できるようになります。
 

最後の
トランス・パーソナル段階とは、
自我を超えた段階です。
 
自分という枠を超えて、
より大きな視点(宇宙的な視点)で
ものごとを見ることができる、
無私の心境の段階です。
 

つまり人間は、
トランス・パーソナル段階に向かって
成長・成熟していくわけですが、
 
トランス・パーソナルな段階に
安全に移行してくためには、
 
まず、
パーソナル(自我)を確立する必要が
あるのです。
 

これは心の逆説的な性質ともいえますが、
 
自我(自分)を
しっかりと大切にできた人が、
 
自然に無我・無私の境地に
向かって行けるのです。
 

つまり、
自分を大切にできることからくる
安心感・安定感があってこそ、
 
自然に他者のことも
大切にできるようになるし、
 
自分を超えた視点でものごとを見る
ことができるようになるというわけです。
 

僕がとても敬愛している人の一人に
宮沢賢治がいます。
 
僕は賢治が大好きです。
 
賢治の詩や童話を読むと、
彼がトランス・パーソナルなレベル、
つまり自分と他人の境界を越えた
無私の段階を目指していたことが
うかがえます。
 

しかし、宮沢賢治という人は、
「自我の確立」が十分にできていない
状態で、
 
一足飛びにトランスパーソナルを
目指してしまったのではないかと
思うんです。
 

賢治は、
自分のことを大切にすることが
できませんでした。
 
賢治の詩や文章を読むと、
 
自分の中の欲求に対して
罪悪感を感じていることや、
 
自分という存在に対して否定的な
感覚を持っていることが
伝わってきます。
 

妹が病床に伏したときは、
自分が元気であることに罪悪感を感じ、
それを詩に書いているし、
 
妹が亡くなったあとは、
「決して一人を祈ってはいけない」 と、
 
妹だけの冥福を祈ってしまう自分を
戒めるような詩を書いています。
 
そして、自分が肺病を患ってからも、
まるで死に急ぐかのように、
 
病気が小康状態になるとガムシャラに
働くという生活を続け、
 
37歳の若さで急性肺炎で亡くなりました。
 

もしも賢治が、
 
「何よりも大切なのは自分自身だ」 という
すべての人間が持っている自然な本能を
受容することができていたら、
 
もっと楽に生きることができたのではないか
と思うのです。
 

もっとも、賢治の素晴らしい作品の数々は、
自我の弱さからくる繊細さがあってこそ
生まれたものかもしれませんが、
賢治自身はとても苦しかったようです。
 

金子みすゞと山本以南のケースも
考えてみましょう。
 

以前、
玄侑宗久さんが講演で
「金子みすゞの詩の中に、
生きづらさを表しているものがある」
とおっしゃっていました。
 
その詩については、
あとでご紹介しますが、
 
その前に、
とても有名な詩のほうを紹介します。
 

彼女の有名な詩の中に、
 
「すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい」
 
という言葉が出てきますね。
 

これは、
「自分は他のものと同じでなくていい」と、
自分を確立しようとしている詩ですね。
 
自分と自分以外のものとの間に
健康的な境界線が引かれています。
 

一方、みすゞは、
「みんなを好きになりたいな」
という詩も書いています。
 
玄侑さんは、
この詩に「生きづらさ」「危うさ」を感じると
おっしゃいました。
 
まったく同感です。
 
すべての人を好きになるということは、
無理ですよね。
 
そんなことを目指すと、
自分の「欲求」や「好き嫌い」を
抑えることになってしまいます。
 
ですが、みすゞの場合、
まじめにそれを目指したのです。
 

みすゞは26歳の若さで自殺しましたが、
夫のことを嫌いになった自分のことを
受容できずに、
とても苦しんだようです。
 
「嫌いなものは嫌いでいいではないか」
と思えたら、
 
もっと楽に生きることができたのでは
ないでしょうか。
 

玄侑さんは、
山本 以南(橘以南)の例も
挙げていました。
 
山本以南は、
良寛さんのお父さんです。
 
当時、俳人としては、
その名が知られた人でした。
 

一方、
当時の新進気鋭の若手俳人に
小林一茶がいました。
 
で、この以南と一茶が、
「慈悲」というものをテーマにして、
句を詠みあったのです。
 

まず一茶が、
「やれ打つな ハエが手をすり 足をする」
と詠みました。
 
それに対して以南が、
「そこ踏むな ゆうべホタルが いたあたり」
と詠み、
 
一茶は「まいりました」と降参しました。
 

ですが、慈悲も、
以南の句のレベルまで行ってしまうと
行き過ぎの感がありますよね。
 
ゆうべホタルがいたかもしれない場所
を踏むまいとするなら、
外を歩けなくなってしまいます。
 
そこまで慈悲深く生きようとしたら、
とても生きづらいのではないでしょうか。
 
以南は
入水自殺でこの世を去っていますが、
 
そのような生きづらさを
かかえていたのかもしれません。
 

今回は、
宮沢賢治や金子みすゞ、山本以南という
偉大な詩人・歌人たちに対して、
 
僕のような凡人が、
「心の成長過程」という一面的な視点
からコメントをしてしまいました。
 
しかし、
僕は彼らを心から尊敬しています。
 
素晴らしい作品を遺してくれた
宮沢賢治、金子みすゞ、山本以南に、
あらためて敬意を表したいと思います。
 
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