本日、和歌山県立図書館より回答をいただきました。
 これを原点に、紀伊国KG印の考証をしてみたいです。

 いつ記入したか不明ですが、私の資料本にこんな記入が、
 記入1 (井上通泰の意味不明)             
イメージ 1
 
 記入2
イメージ 2
記入1を要約すると、
 明治11・7・22   紀伊国(現在の和歌山県と三重県)の
  牟婁郡(単独名称!)和歌山県に属する東牟婁郡・西牟婁郡、三重県に
  属する南牟婁郡・北牟婁郡の4郡に分割する。  
記入2を要約すると、 
 明治12・2・5   三重県の牟婁郡が南牟婁郡・北牟婁郡に分割する。

   和歌山県立図書館よりの回答
第 100   号           平成29年12月26日
               様
                           和歌山県立図書館
質問要旨
 牟婁郡が東牟婁郡、西牟婁郡、南牟婁郡、北牟婁郡の4郡に分割された年月日と、その根拠となる公文書名(ページ名)を教えてほしい。
回 答
『和歌山県史 近現代史料1』(和歌山県史編さん委員会/編 和歌山県 1976年)に所収されている「乙第六号」p10に
「乙第六号
明治十一年太政官第十七号公布にニ依リ従前ノ大小区画ヲ廃シ更ニ郡区分画及郡区役所設置ノ位地等別冊之通制定候条此旨布達候事
 明治十二年一月廿日 和歌山県令神山郡廉」
 p22-23に 
「西牟婁郡 郡役所田辺
  但本県所轄牟婁郡ヲ両分シテ西牟婁郡東牟婁郡トナス然トモ地理上ニ於テハ尚ホ旧郡名ヲ変セサルモノトス」
「東牟婁郡 郡役所新宮
  但西牟婁郡ニ同シ」
と記載されています。
 また、p26「乙第九号」(明治十二年一月廿日)には
「本年乙第六号布達郡区編制中東〔西〕牟婁郡ノ儀ハ行政部ノ区域相立候迄ニテ地理上ニ於テハ其郡界ヲ分画セシ義ニ無之候条猶従前ノ郡域ハ依然相存シ候儀ト可心得此旨布達候事」
との記載があります。
『三重県史 資料編近代1 政治・行政』(三重県/編集 三重県 1987年)p412-413に「第六号」管下牟婁郡南北ニ分割之義ニ付伺(明治十一年七月廿六日)が記載されています。
 「第六号」本文転載の前には、
「「郡区町村編制法府県会規則地方税規則施行順序」(同年七月二二日)第二項に基づき、本県令は牟婁郡の分割を申請した。同郡の分割は、翌一二年二月五日行われ、一三年五月五日太政官布告第二二号によって全国に布告された
と説明があります。
 ちなみに、『和歌山県政史 第1巻 序編
明治編』(和歌山県政史編さん委員会/編 和歌山県 1967年)p172には
「同[明治四]年十一月二十二日に三県が統合されて新和歌山県が発足したとき、県の南北で協会の改訂が行われたが、その最も大きなものは牟婁郡の北半分の放棄と、伊勢国に属する八郡を手放したことである。つまり牟婁郡を新宮川、北山川の線で南北に分割し、南側(現在の東西牟婁郡)を和歌山県に、北側(現在の三重県南北牟婁郡)を度会(わたらい)県に分属されることとなった。」
 と記載があり、p174には
「その後明治十二年一月二十日、郡区町村編成法の公布に伴なって牟婁郡を二分し、大塔、峯の両山脈の以東を東牟婁郡とし、以西を西牟婁郡とした。(中略)この時から本県は和歌山市、海草郡、那賀郡、伊都郡、有田郡、日高郡、西牟婁郡、東牟婁郡の一市七郡制となったわけである。」
と記載があります。
『和歌山県史 近現代
1』(和歌山県史編さん委員会/編集 和歌山県 1989)p81表13注3には
「明治12年1月20日乙第9号達によって、東(西)牟婁郡は、行政部の区域ができるまでの処置で、地理上においてその郡界を分けたものではなく、従前の郡域は以前存在しているとしている。」
と記載があります。 
 
『紀伊東牟婁郡誌 上巻』(和歌山県東牟婁郡役所/編 和歌山県東牟婁郡役所 1917年)p1020-1021には
「明治十一年七月廿二日、太政官布告を以て郡區町村編成法發布せられ(中略)かくて翌十二年一月廿日本縣達を以て郡區町村の編成を布告し、東牟婁郡の區域廣濶にして施政上不便なるを以て之を二分し、大塔山脈及ひ峯山山脈を劃して其の以西を西牟婁郡とし、以東を東牟婁郡と稱せり、東牟婁郡の名茲に於てか初て起る。(中略)尚ほ郡役所開廳に至るまて従前の小區長及ひ戸長をして行政事務を掌らしむ。かくて明治十二年二月十七日を以て、本縣勧業御用係吉田貢東牟婁郡長に任せられ、引き續き郡書記の任命あり三月八日初めて新宮横町官舎に開廳し郡は又行政區劃となれり。」
と記載されています。
『紀伊南牟婁郡誌 上巻』(〔三重県南牟婁郡教育会〕/〔編〕 〔三重県南牟婁郡教育会 1925年)p558に
「此の編制法に依り本縣に於ても郡區の編成に着手し、翌明治十二年二月を以て之を實施せり。此の改正法實施に依り三重縣に屬せし牟婁郡の境域は二分せられ、南牟婁郡の稱初めて起れり。」
p560に
「毎時十二年二月郡區町村編制法實施に依り、初めて南牟婁郡を置かれ同年二月五日三重縣三等屬竹本長潤本郡長に任命せられ郡役所を開廳せり。」
と記載されています。
『紀伊北牟婁郡誌』(田中
朱雀/著 北牟婁郡誌編纂会 1932年)
p28に
「此の編成法により本縣に於ても郡區の編成に着手し、翌明治十二年二月をもつて之を實施した。
 この改正法により三重縣に屬した牟婁郡の境域は二分せられ、三木崎及び八鬼山をもつて分界とし、その以内は南牟婁郡となり以北は北牟婁郡となりて二郡に編成され、茲に始めて北牟婁郡の稱が起つた。(中略)仝十二年二月二十三日郡長任命され(後略)」
と記載されています。
『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1985年)「牟婁郡」の項p1021には
「同[明治4]年11月に田辺県、新宮県が廃止されて和歌山県に含まれ、県境変更により郡域は和歌山県と度会県に二分された。(中略)同[明治]12年1月郡区町村編成法の公布により、大塔・峰の両山脈の以東が東牟婁郡、以西が西牟婁郡となった。」
と記載されています。

回答文中段付近の三重県史部分に、こんな記事が、
郡区町村編制法府県会規則地方税規則施行順序」(同年七月二二日)第二項に基づき、本県令は牟婁郡の分割を申請した。同郡の分割は、翌一二年二月五日行われ、
一三年五月五日太政官布告第二二号によって全国に布告された。
以上を総合しての時系列の結論は、
                                                          紀伊国
               和歌山県         三重県
 
明治11・7・22・存立  牟婁郡      牟婁郡
                  ↓             
明治12・1・20・分割  東牟婁郡・西牟婁郡                                       
明治12・2・   5・分割           南牟婁郡・北牟婁郡                                                         
明治13・5・   5・全国布告 東牟婁郡・西牟婁郡)南牟婁郡・北牟婁郡
です。
 
注目したいのは、明治13年5月5日付の南牟婁郡・北牟婁郡の全国布告です。
この日を境にして、KG印に東西南北の接頭語が付いた?
それとも、明治12年2月5日以降かな?
あとは切手、カバーによる確認作業です。
                                                       では次回まで