インターネットプロジェクト「ハバロフスク日本人戦犯裁判1949」

※こちらはロシア外務省からの情報です。

ロシア語は機械翻訳ですので、情報はすべて保留でお願いいたします。

裁判の準備

 

 


ソ連内務省が日本軍捕虜の収容所で行った工作・調査の結果、関東軍のいわゆる防疫給水隊の元隊員グループ、731部隊が確認されました。<...> 調査の結果、以下のことが判明しました。731部隊は、川島清少将が「1936年、昭和天皇の勅命により創設された」と明かしました。部隊の本部はハルビン市から25キロ離れた、日本語では「平凡」、中国語では「ピンファン」と呼ばれる場所にあり、防疫活動の名目で、日本がソ連と細菌戦争をするための準備をしていたのです。

※川島少将ー川島清1962年(昭和37年)から1969年(昭和44年)まで八千代市議会議長

 

731部隊は科学実験室であると同時に、細菌攻撃剤を大量生産するための一大生産基地でもありました。このため、分遣隊は独自の飛行場、飛行隊、特殊射撃場、細菌や汚染されたノミの拡散に適した特殊爆弾や砲弾の製造設備などを備えていました。

この部隊には、科学実験のために囚人を収容する牢屋がありました。部隊の敷地内には、遺体を焼くための火葬場もありました。

731部隊は、肺ペスト、黒ペスト、腸チフス、パラチフス、炭疽、コレラ、赤痢などの細菌を生産し、血液感染熱である新しい病気「ソンゴ」の原因菌を探し出したのです。

ペスト、コレラ、チフスなどの病原性細菌を人間の大量殺戮手段として使用する可能性を研究するため、731部隊は毎年、日本の憲兵隊から500~600人の生きた人間を細菌学実験のために提供されていました

 

この部隊[731号]には、毎年数百人の生身の人間が、細菌学的な実験を行うために日本の憲兵隊によって連れてこられました。その大半は中国人と満州人で、数十人は国境紛争で日本軍に強制連行されたか、ソ連領から逃亡したか、ハルビンに住んでいて日本の情報機関への協力を拒んだソ連人であることが判明しました。

 

<...> [私は]ロシア語で「シェルター」を意味するキャンプ・ホゴインで、ソビエトに捕まるまで、つまり1945年8月15日までの約7ヶ月間、働きました。

保合院は、ハルビン軍事使節団(当時の司令官は秋草少将)が運営する「調査部」とも呼ばれていました。定員は150人で、さまざまな理由で満州に滞在し、日本の国境警備隊や警察部隊に拘束されていたソ連人を収容していました。
※秋草少将ー秋草俊、昭和24年3月22日、モスクワ州ウラジーミルのウラジーミル監獄で死去


<...> 仕事を始めた当初、指令書を知ったとき、私は731部隊を関東軍の懲罰大隊だと思っていました。 その後、731部隊は研究所で、ソ連国民を対象にあらゆる種類の細菌を使った実験が行われていることを知ったのです。

<中略)浅田大佐との会話から1ヵ月後、同じくハルピンのJAVM(日本軍派遣団)で、軍医衛生部長の前川中佐から、731部隊が生きた人間、特に私がキャンプ・ホゴインから731部隊に送った人間に対して細菌実験を行っていることを知りました。私は何度か、ホゴイン収容所から40人ほどのソ連人を確実に死に追いやり、彼らは実験の下で死んでいったのです。

※浅田大佐ー日本陸軍中尉 浅田眞二、自決❓

 

名付けられた部隊[No.731]は、実質的に3回、細菌学的な戦争手段を使用しました。

1)1940年、上海地区で中国人住民と中国軍の兵士に対して。

2)1941年に長徳地区で「中国軍の通信を混乱させる目的で」、そして

3)1942年、日本軍が放棄した中国領土を汚染する目的で、浙江地域で。


細菌戦争の準備に関わった日本の主な戦犯、石井四郎中将(元第731分遣隊長)太田大佐(元同第4分遣隊長)が日本にいるのです。デレビャンコ将軍がマッカーサー司令部から日本の二人の将軍を引き渡せという要請に応えたとき、マッカーサー司令部は石井と大田を交換で引き渡せという要請を退けたのです。

※石井四郎中将ー部隊長の名を冠した「石井部隊」が後に「満洲第731部隊」の通称号になる。

昭和20年8月、ソ連軍の侵攻を受けた満洲国を脱出し、内地へ帰還

極東国際軍事裁判(東京裁判)において戦犯容疑を問われたが、詳細な研究資料を提供したため、GHQのダグラス・マッカーサー最高司令官とチャールズ・ウィロビー少将の協議によって訴追を免れた。昭和34年没

※太田大佐ー太田澄、731部隊総務部(第四部)長・南京1644部隊長

一番の戦犯です‼