ーー 「さっき説明したよね!?」
 
はい・・ すみません・・

 

(写真と文は関係ありません)

 

 

ーー 「(ハーーアーー。。。(深ーい溜息) 」
 
はい・・ すみません・・ (ちなみにもうすぐ夜0:00)  
 
(ええええ。村越命なんで。ええ。写真と文は関係ありません。)
 

 

こっちきたからいうても、場所変わっただけであり、わたくし自身が変わるわけではありません。はい。
毎日ツライです。 耳のうえがかぶれてぐじゅぐじゅになって汁がたれてきました。はい。
 
大使館でのビザ面接、渡米、SSN取得、運転免許取得。発熱、下痢、不眠。ようやく最低限の関所は越えつつあるかしら。でも5月の一時帰国が見送りになり、とってもズンドコベロンチョです。あーズンベロ ズンベロ
 
以下、U.S.FRONT LINE 様掲載、樋口ちづ子さんエッセイ“待っているものがある”より抜粋ご容赦
--- テクノロジーの発展で、人々の働き方も生活の仕方も激変している。買い物は自宅のPCからアマゾンなどにアクセスして求める品を注文し、数日後にはそれが玄関先に届く。日々のグローサリーでさえ、誰かが代行し、食材を届けてくれる日も近い。行き着く先はどんな社会になるのか、そら恐ろしい。効率の良い仕事、効率の良い収入、効率だけを追い求める社会に寒々しさを感じるのは私だけだろうか。
 

 行員が少なくなった銀行の窓口で迷惑顔で言われた。ここに来なくても預金もお金の移動もオンラインでできますよ、と。しかし、私は銀行の次はモールに行き、それからグローサリーと、5・6件の用事を一度に済ませるつもりだった。そこで会う人々やお店、通りの様子から、街の活気や停滞を肌で感じる。家にいてはその空気が分からない。しかし、それを説明するのは面倒なので、ニッコリ笑って答える。「あなたに会ってお話ししたいんですよ」と。あながちウソでもない。お客も店員もいないガラガラの大きなデパートの売り場。寂しいを通り越して、痛々しい。解雇された人は、どこかに再就職できただろうか。仕事が次々に消えてなくなっているのが現状だ。

 

(省略)

 

 83歳で亡くなった日本の父は長い間、寝たきりだった。ある日、今日は気分がいいからと起き出し、庭に柿の木を植えたそうだ。そして郵便局に行って米国の私に船便で小包を送ってくれた。その翌日、亡くなった。1カ月後、私はその荷物を米国の郵便局で受け取った。それは母が私のためにあつらえてくれた何十枚もの本絹の着物がつまったもので、大きく、重いものだった。こんな重いものを弱っていた父がよく運べたと、驚いた。受け取る時、まるで父の亡骸を受け取るような気がして、涙が溢れた。

 

 送った時と受け取る時に、これだけの時差があると、人は現実の世界から遠く離れた静かなところにゆく。生活がかすみ、人生という自分が生きている時間の全体がはっきりと見えてくる。待っていたのは物ではなく、物の背後にある人の愛であることが見えてくる。だから、待っている物がたくさんあるほど人の愛が届き、生きる時間が深くたされたものになってゆくのではないか。

 

 効率を追い求める世の中では、待っている時間がない。時間の中で発酵する人の愛を待つことがない。それが生きる世界を薄っぺらにしているのではと、私を不安にする。

 待っていればいつかは届く。すりきれた小包が、汚れた手紙が、愛しいもの、大切なものを運んでくれる。人の愛を受け取りたい。届けたい。---

 

いたく共感した。一見無用な待つという行為。でも待っている時間というのは素敵だ。ぼくは待ち合わせ、というのが大好きでさ。誰かがその誰かだけと会うことを楽しみに、想い、たたずむ、その時間が。二人だけの、仲間だけの、家族だけの秘密。

 

ぼくは今日こっちに来てはじめて、今月末に11歳の誕生日を迎える下の子にあてて手紙を書いた。

ものは送らない。ぼくの書いた文字と紙だけが、海を越えてとんでく。

 

 

そしてそれをさっきラインで彼女に伝えた。海外にいても、スカイプやラインで無料通話どころかテレビ電話もできるし、写真も動画も送ることができる。すごい時代だよな。

 

もちろん手紙に書いた内容は彼女には教えていない。届くのは一週間後かそれ以上か。届かないかもしれない。でも届くまでの、このささやかな時間をふたりで楽しみたいと思います。

 

ここから神奈川県まで太平洋を越えて越えて8829キロ。届け、ぼくの想い。