夏真っ盛り、青々と繁る夏の桜を見てふと思い出したことがある。
春先、会社の上司との会話
『俺、咲きはじめの桜が好きっすねー、パワーみなぎってるっていうか。』
『俺は満開後の散り始めが好きだな~』
『。。それって、女の好み、でてない?』
うぉー、かもねー、なーんてねぇ・・
てなわけで上司は熟女好き、俺はロリコンにされたわけだが・・
そうじゃない、違うのだ。
桜の花を見ると、中学の国語の教科書にのっていた人間国宝、
染色家の志村ふくみさんの話を思い出しませんか?
せっかくなので、中学校『国語2』(光村図書出版)、
大岡信さんの『言葉の力』から全文引用。
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人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。
しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、
単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。
ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、
別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。
それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、
それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。
人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、
志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。
そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、
華やかで、しかも深く落ち着いている色だった。
その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。
「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」
と志村さんは答えた。
素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。
実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。
あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。
志村さんは続いてこう教えてくれた。
この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。
桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、
こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。
春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、
花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、
私の脳裡にゆらめいたからである。
花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。
桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、
ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、
木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、
春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。
しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。
たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。
このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。
言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。
一見したところぜんぜん別の色をしているが、
しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、
それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。
そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。
そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、
ささやかさそのもの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。
美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
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うん、そう、何かずっと記憶に残ってるんだ
これを読んだ時から、春だけでなく、夏の桜を見ても、
その幹に手を触れたくなるのだ
秋を過ぎ、冬を越え、満を持して幹全身で
春にピンク色の命を吹き出す。
そこにひかれるのだ。
前述の大岡さんの文章は、人が放つ言葉を桜の花びらにたとえている。
桜の幹と、己の本質と。
で、大人になってから、この大岡さんの『言葉の力』は、
志村ふくみさんの代表作の『一生一色』からの引用であると知った。
悪いけど大岡さんの言葉の力がどうのこうのという解釈よりも、
純粋に生命みなぎる桜の木に対する畏敬の念と、
『植物には全て周期があり、期を逸すれば色はでない』との
人の一生にも例えられるような示唆に富んだ、
この文章のほうが好きだな。
読みようによっては、厳しい。
でも、読みようによっては、すごく勇気づけられる。
体の底から力が、ふつふつと、湧き上がるんだな。
そうなのよ、おいらが芽吹く春はこれからよ!ってね!
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まだ折々粉雪の舞う小倉山の麓で桜を切っている老人に出会い、
枝をいただいてかえりました。早速煮出して染めてみますと、
ほんのりした樺桜のような桜色が染まりました。
その後、桜、桜と思いつめていましたが、桜はなかなか切る人がなく、
たまたま九月の台風の頃でしたか、滋賀県の方で大木を切るからときき、
喜び勇んででかけました。
しかし、その時の桜は三月の桜と全然違って、
匂い立つことはありませんでした。
その時はじめて知ったのです。
桜が花を咲かすために樹全体に宿している命のことを。
一年中、桜はその時期の来るのを待ちながらじっと貯めていたのです。
知らずしてその花の命を私は、いただいていたのです。
それならば私は桜の花を、私の着物の中に咲かせずにはいられないと、
その時、桜から教えられたのです。
植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色は出ないのです。
たとえ色は出ても、精ではないのです。
花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、
花そのものでは染まりません。
友人が桜の花の花弁ばかりを集めて染めてみたそうですが、
それは灰色がかったうす緑だったそうです。
幹で染めた色が桜色で、花弁で染めた色がうす緑ということは、
自然の周期をあらかじめ伝える暗示にとんだ色のように思われます。
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