『学級崩壊の危機』『子ども達の荒れ』『指導力不足教員』
使うのも忌み嫌いたい言葉だ。
でも今、どこの学校でも抱えている問題だと思う。
(ここでは『いじめ』などの子ども達の関係性ではなく、教師と子ども集団の関係性の問題に限定する。)
これをダウンスパイラルさせる『要因』もおおよそわかってる。
『仕事量の多さ』、『管理職のパワハラ(ないしはそれまがい)な指導』、『一部の保護者の恣意的批判」。
そしてそれを増幅させる『同僚性のなさ』、『無策』。
次第に『その教師』を精神的に追い込んでいく。
『病休』『退職』というだけでもひどいことなのに、最悪の事態さえも…。
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どう対抗していけばいいのか。
『その教師』と『そこにある子ども』を救いたい。
まずは、ダウンさせていく『要因』を排除するべきだろう。
同僚がサポートするべきに絞ってみたい。
(1)仕事を軽減する。
・分掌を外す。調整に時間がかかる個別の会議には出席させない。
その分、楽にさせ、余裕を持たせる。できれば、同じ時間にクラスの様子などの話を聞いたり、授業ネタを練ってくれたりする人をつける。
これは周囲に倍の苦労をかけるかに見えるけれども、必然的に周囲に仕事の軽減を強いることにもなると思われるので、実はいいことなのかもしれない。
できるだけ分掌は改善などの面倒臭いことはせず、昨年度同様の動きか、それ以下にする。
(無駄の多い教委へ報告書などは、虚実報告にでしておけば良い。どちらの緊急性が高いかを考えれば当然のことだと思う。必要悪を黙認するべきだ。)
・初任研などの研修レポート類は削る。神経質になってしまう週案も削る。
逆に言えば、これがネックで教師が首が回らない場合が多い。
・宿題や丸つけなどを極端に減じる。
評価作業が大変になると思う人がいるけれども、実は荒れているクラスは「指導と評価の一体化」という目線で考えれば、「負担となる評価を下げると指導が焦点化されて」、その後にうまくいく素地が生まれる。
『荒れている学級』→『指導強化』→『失敗や反発』→『評価の困難』→繰り返し
この流れを変えるには、まず、『評価しない(少なくする)』が効果的だ。子どもと向き合って硬直することも減る。
私の場合、以上のように、仕事に神経質に当たらなければならない機会を減らすことこそが、次の展開への下準備となると考えている。
(2)教育計画をいったん計画的に無視する。
・よほどのことがない限り、学校に登校してくる子どもは『学校に学びに来ている』前提は崩れない。
子どものイメージする『学び』は、『教科書」『となりのクラスと同じ』に加えて『わかる・できる』が呼び覚ます『高まった実感』だと思う。これに『生活』の中の『関係性』と『安全性』が確保されていればジャストではないだろうか。
だから、教科書を用いていながら、その内容をステップにしつつ、多様な『わかる・できる』楽しさを確保できる『活動(学習とは限らない)』をコーディネートできると、子ども達自身も規律を生み出しやすくなるだろう。
・その『活動』は、簡単なPA(プロジェクトアドベンチャー)を取り入れてもいいだろう。大縄でやるという『力わざ』の人がいてもいいだろう。
でも、できれば、子ども達に『活動』を任せつつ、クラスの学びを呼び覚ますものにつながっていくといいと思う。だから、そう言った流れを理解するメンターに出会えるというのは、『その教師』にとって、とても安心になるだろう。(残念ながら、そう言ったことを知っている同僚がいないというのも現実問題だとは思う。)
・教育計画を無視して、そのようなことをして子どもが育つのか?次の学年で困らないのか?親が文句を言わないのか?といった言説がよくある。
これについては、逆に、そう言ったことに不安になってしまったり、きちんと説明できなかったりする側の問題が大きいと思う。
教師は教育のプロである所以は、『カリキュラムのプロ』と言うことだから、一見周りに道に見える状況だけれども、長い目で見たときに、ここで無駄になってしまう既存の計画を遂行するために無駄な労力を割いて失敗するよりも、新しいカリキュラムで当たることの方がよほど効率的であることを知った方がいい。
(3)校内体制をチェンジする。
・今やトップダウンの教育施策(暴策)に蝕まれた学校の体制では、現実的には立ちいかない。弱いところに歪みがいく。そこを叩いたり切り捨てたりしても改善なんて無理だ。
・逆に、そこを救い上げていく中で、こういった馬鹿馬鹿しい状況を打破していくべきだろう。教育現場の自主性(『自由=多様性』と『平和=安心』)を確保すべきだろう。
・『その教師』を支えるのは学校全体で行うべきであるし、そこに見通しのある計画性を持ち込むためには、ローカライズを厭わないことが大事だ。そこにいる人の個性を生かすべく体制は組まれるべきだ。そしてその物理的な余裕を確保するために、全員が協力すべきだろう。
その学年に任せっぱなし、管理職に任せっぱなしにしない。
特に後者は、『その教師』のやっていることに介入し、『その教師』の教師としての価値を下げてしまうか、もっと上位の教委に投げてしまい、更に解決を遠のかせることになる。教育センターから指導教師などを呼んできても、改善なんてしないことの方が多いし、毎回それでは非効率だ。
・教育のスタンダードにも大反対だ。UDも同様だ。
『その教師』が必要なのはそんなものじゃない。どんな立ち位置でも、子どもを見ることを忘れないことだろう。今の多忙な現状は、その大切なことから剥ぎ取られているからなんじゃないだろうか。
そこを完全に確保できる状況でこそ、UDなどは効果やその発展が見込めるだろう。
『形から入ればうまくいく』のであれば、教師が人間である必要はないだろう。
(ちょっと一足飛びな話にしてしまったが…)
・『その教師』と共に学校が改善されるならば、当事者は『その教師』だけではなくなる。
そういう同僚性を築くことを今の学校の困難を見つめて考えている。

