くまさん

くまさん

ある日、ネットの森の中、くまさんに出会ったら・・・。

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【そうじゃない感】

 

 町田市の小6児童のいじめ起因の自殺についての報道がなされている。

 この件について思うことを少し書き留めておきたい。

 

 何よりも、この痛たましい事件に関しては、亡くなった子どもの冥福と、両親、親族ならびに近い関係の方々の哀悼の意を表したい。

 このようなことが世の中から無くなってほしいと切に願いたいし、私になりに努力したい。

 

 今の一番なされてほしいことは、事実が明らかになることだと思う。

 

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1.学校の現状という背景について

 

 いろいろな報道記事を読むにつけ、「学校のIDなどの管理がずさん」という点は、どうやら事実のようだ。

 校長がずいぶんそのずさんさに拍車をかける指示を出していた可能性を述べる記事も目にした。

 

 これについては、私自身も学校現場を知るものとして、正直、そういったことが起こってもおかしくないという残念な所感をもっている。

 それほどに学校現場は管理ばかりが徹底され、上意下達でものごと進み、思考停止が覆っているところが多い。

 

 この件によらず、さまざまな学校教育現場の問題の1番の背景は、いつもここだと私は考えている。

 

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2.SNSやチャットなどについて

 

 SNSやチャットなどのネットツールは、「人の関係の触媒」のようなものだと私は思っている。「触媒」は双方のやりとりを加速、過激化するというイメージだ。

 

 工業的には「触媒」を上手に利用して、反応速度を上げる効果を狙うのだけれども、反応が過激になってしまえば、それは取り返しのつかない暴発や事故につながるのは、化学的には当たり前の認識だと思うがどうだろう。

 

 人の関係に「過剰な触媒」を用いることは、関係上の危険が生じる可能性が高まる。そのことを理解せずに、そういったコミュニケーションツールを用いれば、こういった結果を生むことは、実際には「わかっていたこと」ではあったはずである。

 

 その中で、IDやパスワードが共通であったというのは、予期される問題について、あまりにも甘くみていたと言われても仕方がないことだと思う。

 

 個人的には、この点に気付かなかっ教員はいなかったのではないか?と思えてならない。

 少なくとも私がこの学校の教員であったら、この危機自体は把握していたはずだ。

(私であれば、上申したであろうし、周囲の教員に投げかけもしたはずだ)

 

 学校がそういう関係を生み出すツールの「暴発の引き金」が、非常に軽くなっていたという認識があまりに不足していたのではないか?という疑念を挟むことは、現時点では否めないだろう。

 「大丈夫か?ここの教員!」と言われても仕方がない。

 

 ただ別な報道では、校長がそこを恣意的に推進してきたという話もある。

 そうであるならば、この下に働いていた教員は不幸としかいいようがない。

 今の学校現場は、こういった上意下達に対して無力だ。

 今や職員会議さえない学校が増えている。

 保護者向けの学級通信も発行が自由ではないし、学校によっては実質的に禁止のところもある。

 言葉を奪われ、声を上げられない、口を閉ざされた教員の存在が、今の日本の(大きく言い過ぎなら東京都の)教育を覆っている黒い霧なのだ。

 だからパワハラも大手を振って横行しているところが生まれる。

 

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3.集団づくりや学級づくり指導が無いこと

 

 ひとつ、背景的な部分を指摘しておきたい。

 昨今の学校の指導内容についてなのだが、人との関係がうまくなっていくような指導がなされているだろうか?

 関係について指導するときに、一方的なものになっていないだろうか?

 民主主義の形態を教える児童会選挙などの活動も今の都下の学校にはない。

 

 個人的には、集団を指導するための理論と実践について、かなりトップダウンで一面的な見方や方法が強調がされてきているのような気がしてならない。

 いや、あまりそういった目線が共有されていないどころか、そういったものがあるという意識ももたない教員が増えている気もする。

 

 今の学校は、上意下達の管理社会で、末端である教師に教育の自由がまったく保障されていない。かなりむごい状況であることは、#教師のバトン を調べてみても明らかだろう。

 そんな環境下の教員たちに、人間関係を育む環境が用意できないことがあるのではないだろうか。

 

 民主主義や人権、平和、心身の自由について、語れる場に学校はなっているだろうか?

 個人的には、子どもや保護者にも、末端教師に対しても、テスト漬けや人材スキルの向上ばかり求められ続けている教育の状況こそが、さまざまな暗黒面を生み出しているとしか思えない。

 

 そういった観点を忘れずに、少し視線をずらしてみよう。

 「学校スタンダード」もその一つではないだろうか?

 

 某市では、子どもに学校スタンダードに従うと誓約書を書かせていると聞いた。そんな抑圧下の中で、人としての関係が築けるとは到底思えない。

 

 割とその中であるのが、やたらレッテル貼りをする特別支援的な教育(特別支援教育とはあえていわない)、形式ばかりのSST、一問一答ともいえるゴール明示方式の特別の教科道徳の授業・・・

 また、そんなものに頼っている教員が、高度な教育を行えるとは到底思えないのだが・・・。

 

 もっと人の関係をあたためていくことができる学校になっていかないだろうか?

 そのためにもっと自律的、自主的に共同し、創造していく学校づくりはできないものだろうか?

 思考停止しているというのは、そういうことではないだろうか?

 もっとよりより教育は?と追究する教員が育まれる学校にはならないのだろうか?

 

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4.煽られる資質・能力

 

 今回の事件と間に触媒的に挟まったICT機器、そして学校の問題について、別な角度で考えなおしてみる。

 

 情報スキル教育が先進国で劣っているという競争の煽りをそのまま受けて、やたらに教育施策の積み木を積み上げ続けてきた上に、「端末で授業や宿題をすればいい」というやり方がどうだったのだろうか?

 また、各地でそうある状況、学校という存在自体は問われるものがあるのではないだろうか?

 

 やはり二度とこういった悲劇を繰り返してはならないわけだから、抜本的に考えるべきではないだろうか?

 

 学校とはどういう場であるのかを今一度、いや二度も三度も、しっかり振り返って、だれもが当事者として声を上げ、変えるべきを変えていくことが必要なのではないだろうか?

 

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 一言ぼやいておく。

 

 情報機器に関していえば、情報受信的なツールであるタブレットよりも、よほど情報作成、発信の創造的なPCの方が優位だと思うのだけれども、学校によってはあれだけ有り難がって入れていたPCを全廃してタブレットに入れ替えたところがある。

 こういうトップダウンって、ホント、「馬鹿!」としか言いようがない。

 

 これと同様に、この事件への対応が、学校に心理士を増やしましたとか、外部専門家による学校指導が常時入るようになりましたとか、道徳教育を強化しましたなど、そういった破れ鍋に綴じ蓋な性格のものが入って終わりということになるのが一番危惧していることだ。

 

 現場責任ではなく、社会的な責任を感じ、学校教育がよりよくなることこそが大事だと思う。

注意:これはFB内で公開されている記事の抜粋です。

 

【第28回 学びをつくる会 研究集会】

 

告知CM:その2(これはシリーズ化して、だいたい毎日更新されます。)

 

下に、先日アップしたチラシ画像の内容を参照しやすいように記事化します。

要点だけなので、詳細はチラシなどを手に入れてください。

yo-zep@jcom.home.ne.jpにメールを送ると添付データを返送いたします。)

 

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「人と人をつなぎ、学ぶことと生きることを結ぶ」

第28回 学びをつくる会 研究集会

 

日時:2020年2月1日(土)10:00〜16:30(受付開始9:30〜)

   午後からの参加者は13:00〜受付いたします。

場所:北多摩西教育会館 三階会議室(JR中央線 国立駅 徒歩3分)

   地図はチラシをご覧ください。

参加費:1000円(学部生、院生は500円…ただし、交流会参加希望者は無料)

   交流会への参加希望は受付時にお願いします。

 

【午前の部】10:00〜12:00

山本宏樹先生のご講演

「インターネットを生きる子どもたち 〜今、私たちに求められること〜」

・演者からのメッセージ

 子どものネット・SNSをめぐるトラブルと、その底流にある子どもの承認欲求の問題について、具体的なデータを交えてお伝えしていきます。

・山本宏樹先生プロフィール:東京電機大学准教授 教育科学研究会全国委員

(前回の記事にその他の詳細はゆずります。)

 

【午後の部】13:30〜16:30

第1分科会(学力・授業)

石垣雅也さん(滋賀県・小学校教諭)による報告

第2分科会(子ども理解・教師論)

橋本耕平さん(埼玉県・中学校教諭)による報告

前から観たかった映画「あん」をレンタルして自宅で観た。

 

1月にアップリンク吉祥寺で再映されていたけれども、どうしても体調が戻らずに逃していて、気になってしかたがなかった。

それ以前に、名優「樹木希林」がなくなったことも、自分の中では大きく響いていたし、1月末ごろの全生園資料館で行われた、宮崎駿のぐしゃぐしゃした講演も心に突き刺さっていた。

 

午前中に、映画館(同じくアップリンク吉祥寺)で「鈴木家の嘘」を観たあとだったので、主たるモチーフやテーマは異なるのだけれども、どちらも「生」と「再生の可能性」を扱っていた部分があったという点では、イメージが絡まった。

 

ただ、「あん」は明らかに「再生、または心の解放への物語」だった。

 

映画冒頭の桜の色と、ラストシーンを彩る桜の色は明らかに異なっていた。

前者は爽やかかるまばゆかったが、少し寒々とした色合いだった。

後者は、少し色が熱をもっていた。

・・・僕の気のせいかもしれないが・・・

 

永瀬演じる店長の夜は暗い。

そこから抜け出せない泥のようなイメージだ。

アパートの柵も、本当に何かの柵のような影をもっていた気がする。

 

徳江のはじめの手紙にある、

「ヒイラギを越えてくる風が、店長さんに手紙を書けと言っている。」

という部分。

全生園を訪ねたことがある人はみんな知っているだろう。

そこがヒイラギの垣根で囲われた鬱蒼とした森のような木々に囲まれた場所であることを。

中は開けた住宅が平たく並ぶ場所になっていることを。

そこだけで生活できるように閉じられた収容施設として作られていることがすぐにイメージできる。

映画のストーリーは、比較的直線的な感じがして、周囲の人々が、無理解というか無知を放置して生きる人であるかのようで、そこはどうなのか?と小説に当たりたくなった。

ただ、それが映画としての欠点のようなものではなく、きちんと筋を語るためのものとして機能していたとは思っている。

 

そしてやはり樹木希林はすごい。

この人はセリフの間や言い回し、そして視線もだが、そこを支える体の細かなさばき方が目を引く。

一瞬にして役の世界へ見るものを誘ってしまう魔力のようなものを感じる。

 

逆光と反射光、役者の配置に、映像の妙があって、映像表現としての面白さもあった。

徳江との再会のシーンが特に印象深い。

人のふれあいの際の、敷居とそこを上がって打ち解けた瞬間の自然な感じが胸を掴んできて、僕はそのシーンのカメラワークの中で泣けてしまった。

 

映画「あん」

素晴らしい映画作品だった。

学びをつくる会の事務局を務めています。

昨日、全日使って、会の大きな行事といえる「研究集会(通称:大集会)」が行われました。

以下に少し、自分の振り返りをしたいと思います。

 

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10時の開始時、用意していた東大教育学部棟の大部屋が参加者で埋まりました。

キャパ69人の部屋に70人以上が入ることになりました。

 

冒頭挨拶として、世話人代表の佐藤隆先生が話しました。

昨今の報道などにより、教員のブラックな状況に陽が当たり、そのことで帰って若い人たちが教職に希望を失うのではないか?という内容がまず提起され、そのことを乗り越え、教育の現場が豊かさや真のやりがいを回復するには、冷静に事実を見つめ、社会に訴えて再生を図るための好機になる可能性をもっているし、そのためにこの会のような、真の学びを継続することに目を向け、意識的に参加者で自分たちの学びを育んでいきましょうというようなことが語られた。

(私の脳内記憶のみなので、細部が異なっていたらごめんなさい。)

 

そして佐藤博先生から今日の講師の紹介があり、田中孝彦先生の講演になりました。

 

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【田中孝彦講演】

(私は事務局だったので、裏方でいろいろ動いていたので、話は半分だったのだけれども、レジュメがよくできていて、途切れ途切れでもちゃんと聞くことができました。)

 

私自身が感銘をうけたのは

 

・教師の研修や研究に関わる裁量権を、良好、有効に用いることの重要性。

トップダウンの訓示、教示や官制の伝達的な研修会では、あまりにも情報が偏りすぎている。

だから、教師自身が主体的に学ぶないようを掴み取っていくことや、学びたい内容を掴んで提案していくことが大事であることを述べられていた。


・子ども理解のカンファレンスが、如何に職員協同的な活動を促し、学校の困難を打開する一手になるのかという重要性。そして、その導入への示唆。

 

・地域と共にある学校の可能性を探ること。

 

長野から来ていたI先生から、3点目について、具体的な事例を質問されていたが、この点は、事例を待つといったところになっていたのが残念ではあったけれども、その点を全員で共通理解できたことは有意義だった。

 

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【授業・学力:第1分科会】と【子ども理解・教師:第2分科会】

 

私は第2分科会に出席した。

 

まず、岡山の新任教師O先生の、この1年の苦労や悩み話しだった。

学びをつくる会などで、メンターに出会ったことが、彼の悩みを深いものにしていたが、教師の育ちとしては豊かであるようにも捉えることができた。

他方、教員の業務量の異常さが背景にあり、その点については、この会でも、現場の1番の問題点として情報が共有されたと思う。

若い教師の困難は、再生産される傾向にあって、O先生のようなまっすぐな思いを抱き続けることの重要性と希少性を浮かび上がらせたと感じた。

 

2つめは、茨城のY先生の実践。

7年目になる人らしく、自分のやりたいこと:「地域と学校の接続」についての実践事例が興味深かった。

今回は、学校現場の教師の困難をメインに据えての報告だったので、詳細はちょっとわからなかったのが残念だった。

この点は別レポートを待ちたいと思う。

O先生の話との接続を考えた時、

「先生の教室の子どもは大丈夫ですか?」

に対して、

「そうですね、ダメですね。担任の指導力不足ですね。」

と、笑ってかわすまでになっている、その成長段階の見通しが開けるような話に、力強さを覚えた。

この教室の子どもの声が聞いてみたくなった。

 

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例年、大集会では100名余の参加者を得ている。

(一時期は80名に落ち込んだこともあった)

今回は、教研や他の学習会が重なり、現職教諭の参加者が予想通り臨むことができなかったようだ。

そういった状況の悪さの中、80名弱の参加者を得たことは心強かった。

 

飲み会も28名も残っての会になり、たいへん盛り上がった。

何よりも、これだけ若い人たちを抱えて、実りある豊かな学習会を開ける会は、本会以外にないだろうと確信した。

これからも若手支援と現場の状況改善を旨とし、多くの教育実践から学ぶ会でありたい。

 

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学びをつくる会という運動は、各所に広がっていると信じている。
教育の悪い情勢を跳ね除けるのは、自由闊達な議論が認められる民間教育研究活動からであり、その中で独自の位置を会は占めたいと思う。

雑誌「教育」5月号の「ごんぎつね」実践を好意的に読んでくれた元愛知教育大のK先生のおかげだろうか、兼口さん(全生研)がここ2年ほど頑張っている自らの学習会へ、実践報告の話し手として招いてくれた。

 

町田駅の近くの会場へは、これで2度目になる。

前回は4人だけだったけれども、今回は6人。

ありがたかった。

 

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【最初に述べたこと】

 

まず、しんぶん赤旗への4回の連載記事を名刺がわりにした。

プロジェクターなどの準備の最中に読んでおいてほしいことを告げ、中身よりも自分の経歴、特に民間研との関わり合いの中で、自分がどのような教師でありたいかを話した。

・2000年くらいを契機に、特に新規採用者から管理統制の被害者が出るようになったことを実感していること。

・そういった中で自分も苦しみ、自分が本来やりたかった教育の形が失われた時間が長かったことから、そういった思いを次の人にさせたくないという問題意識の中で、学びをつくる会の世話人をやっていること。

・管制の研修会で身につけたことが如何に意味の程度の低いことを意識させられた民間研。ただ、そこでも行き惑うほどに現場が急速に荒れていったこともあるし、その中で生き抜くための「マウンティング(権力闘争)」に、自己嫌悪と忌避感を募らせてきたこと。

・ようやく自分の教育といえそうなものを手にしつつあって、今回は、その一端を垣間見せることができたと思うこと。

 

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【いきなりの脱線】

 

・理科専科の人がいたので、前振りで、スケッチ実践をプロジェクターに写した。子どもたちのスケッチの結果に感嘆の声があがった。この意味づけとしては、京都教育大学のK先生が述べていた、「スケッチするという中にも綴り方の精神が宿っている」ということについて説明を加えた。つまり、「自分の観察記録として意識して残すことに集中する体験的な学習である」ということ。また、私としては、「物事を自分で捉える」という意味づけを強調した。これは「体験=自己の物語意識」なのだとも。

 

ここで「ごんぎつね」の話に入ろうとして脱線。

「資料を見る限りでは、ノートを子どもが取らないなどの工夫があるけれども、漢字の指導などは並行してやっているのか?」という一般的な質問が出た。

兼口さんからも、

「漢字ドリルとか使うの?他の学習が並走しているの?事前にやっているの?」

というような質問が出たので、漢字の授業についての話をすることにした。

 

・漢字の学習にも「物語性」を持たせていること。「左」「右」の一画目の方向は、親指から小指にかけての線でできているから異なること。「人」から「大」、そして上に「一」で「天」、さらに下に「一」で「立」、「立」が横に二つで「並」と、部首のイメージと部首のつながりに注目して、一連の流れの中で漢字を教えていることを伝えた。

・もともと教科書の漢字配列には意味がないばかりか、お為ごかしの不合理があり、機械的に漢字を覚えることの苦痛や「面白くなさ」を強調した。

 

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【響き合いで読むごんぎつね】

・詳しくは、雑誌「教育」5月号にゆずる。

 

ここでは話題にしたことだけ。

・兼口さんから指摘が出ていたが、「KとUが面白い。何か関係性があるのか?」ということ。これは特にはないけれども、3、4年生として2年間のつながりがあり、特にKは家庭的な影響から、多くの人と問題を抱えやすいタイプだった。意固地になりやすい彼の意見を、学習からの逃避を繰り返して育ってきた自由人のZが、前回の「一つの花」で自分の意見が認められたことから授業に参加するようになり、Kの意見に微妙な接触を行いながら授業を前進させる問題提起を行っている点が、私の書きたかった一つだと伝えた。

・また、ようやく登場しているDも、ベタ打ちの記録しか載せる紙幅しかなかったため説明されていないが、生活上は他者にドライにしか当たれない彼の意見は、この物語の「温み」を押し出す意見として機能しており、授業期間の彼の落ち着きようは、その後も続いていくことになる。

・多様な関係性が授業の中の対話に映し出されていることを知るのは教師のみなのだけれども、K先生はその点を嗅ぎ取って、この実践記録を評価してくれていたと感じている。

・教科内容的には、K先生や三二さんなどなどから、「本文がどの『視点』で描かれているかを教えていないこと」、「『誤読』について、さっさと教えてしまわないこと」などが、この実践最中にあったのだけれども、この教材文のもつ力を信じて読み切り、きちんと「誤読の修正」を子どもたち自身で行うことができた点を、自分の自負としていることを告げた。

・「一読総合法」は、管制研の「三読法」に比べて、子どもにとって複雑で高度と言えるかもしれない。また、教師の力量も要する。しかし、「文学作品に出会う」という意味づけで考えれば、「三読法」は幼稚で、与えすぎの誰でもできる授業方法と言える。ここで例えたのが、「おせんべいの食べ方」だった。いきなりバリバリ食べるワイルドな食べ方(一読総合法)は、おせんべいそのものを丸ごと味わう感触を得られるが、袋の中で先に全部細かく割って食べる(三読法)は、合理的だが、歯ごたえや総体イメージなどの点で劣っているのではないか?という話。兼口くんがたいへん気に入ってくれて大笑いだった。

 

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ここで言い訳のようなことをしておくけれども、「視点」を活用した読みに何か問題をあげているわけではない。

むしろ、その読みの方が高度で素晴らしいと思っている。

 

ただ、人が「読む技術(文化)」を獲得していくときには、他者の手が必要だと私は信じているし、その体験が、計画的な「学習」である必要もないと思っている。

それよりかは、読む「楽しさ」や「豊かさ」を実感し、物語に感動してほしい。

 

一読総合法は、授業の経過の中で、何度も子どもたちの感動の涙を誘ってきた。

これこそが文学との出会いの体験の核心なのじゃないかと、青臭い気もするが、今はそう思っていたい。

 

私の場合、「楽しさ」を味わう技術は、管制研の目指して失敗した「楽しい体育」を想起させるが、あれらは一般化して広げようとしたから失敗したのだと思っている。

授業技術や教育への挑戦の営みは多様であるからこそ、総体が大きく膨らんできたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

教師は教育上、子ども=生徒・児童(場合によっては保護者)に対しての、教育の内容の「提案権」をもっている。

 

カリキュラムを設定する力量がなければならないのは、このこととセットだからだ。

そして、その力量は、「子ども理解」と「教育の内容理解」を十分条件としてもっている。

 

また実は、教師は提案権以外の自然的な権利は持ち得ないのではないだろうか。

 

「学習」は「する・しない」ものであるか、「できる・できない」ものとして判断される。

ここに「させる・させない」はないと私は思っている。

 

「学習」はパーソナルなものであり、獲得された知識や技能は「学び手」のものでしかない。

 

教師は「学習」の環境を整え、方向付けとしてのカリキュラムの設計と提示を「学び手」に行うことができる。

また、学びへ誘う文化を携えている存在ということになる。

 

これは教科内容や領域内容だけでなく、生活指導上の内容についても同じである。

 

 まつりの3日目。

 

ー第ー18ー分ー科ー会ーーーー

 

 第18分科会では、生活科の実践レポと社会科を中心として平和教育の実践レポが伝えられた。

 

 ここでは平和教育について記しておきたい。

 

 絵本「へいわってすてきだね」を導入に、高学年において、「道徳」の価値観、「国語」の単元を利用し、社会科でまとめていくカリキュラムは、教師主導的な要素をおのずと持っていたと思う。

 

 ただ、絵本の力といえばいいのか、「戦争」や「占領」という歴史的事実は、そのもの自体が情動を生む力をもっている。

 絵本から伝わる「力」は、まさにそういったで、「平和」を考える際に、「戦争」を意識せざるをえない、学びに引き込む流れを感じる。

 

 ただ、その流れは果てが見えていて、世話人のNさんも指摘していたが、

「子どもの感想がどれも同じ」

ということは、やはり教育の内容としてはそういうカラーが強いのだということになるのだろう。

 

 「戦争」に対して「平和」を述べるのは、実際的にはだれしもが願う価値観だろう。

 ただ、それが一人一人の経緯として想像を巡らせていくとき、何が「平和」につながるのか?は、多様な切り口が必要になるだろう。

 そこを授業としてつくるとき、難しさを感じざるを得ない。

 「平和」観が押し付けとなってしまうと、「平和」の停滞が起こるだろうし、逆の立場の人たちの価値観の押し付けも可能という道筋ができてしまう。そこがなかなか難しいと思っている。

 

ー余ー談ーーーーーーーーー

 

 自然科学的認識に対し、社会的認識には情動が伴うものだと、せーじさんが言っていた。

 認識を育む私たちにとって、そういうことはたいへん興味深い区別のような気がした。

 

 社会的な認識を育む中で、社会変革の必要性に気付いていくというのは、情動が働くからかもしれないと思った。

 自然科学的な認識にも情動はあるが、それは社会変革的なものに通じているとは思えない。

 ただ、事実認識の正確さを求める力については、自然科学の認識を社会科学も用いている節があるから、そういった意味で、双方があっての「認識」なのだとは思っている。

 

ー終ーわーりーのーつーどーいー

 

 佐貫委員長の言葉はいつも以上に力強いものだった。

 

 3人の現場実践家を並べ、それぞれに語らせたのち、会場からの返しの時間となった。

 

 次第にヒートアップする会場からのコメント群。

 ただ、現場教師の発言が続いているのは気にはなった。

 でも、この勢いに乗って、私も話したくなった。

 手を挙げた。

 

 くまちゃんに先にマイクをとられてしまった。

 くまちゃんの話はすごかった。

 ふりしぼるような、でも豊かなコメントに感動した。

 

 佐貫さんが私を指差す。

 奇しくも最後のコメントになってしまった。

 

 私が話したかったのは、

・現場を励ます教科研であってほしいということ。

・また、民間研で稀有な存在感を誇っている教科研大会に集うという意味について、これからも問い続けていきたいということ。

 上気した私は、そんな中身の半分も話せずに終わった。

 でもいい。

 教科研の一員(これでも全国委員だよなぁ)として、これだけ大勢の前で初めて話すことができた。次はもっと自分の中身を逃さないようにする練習だと思っていた。

 

 再び、前の3人にまとめのコメントが引き継がれた。

 「子どもの事実を、声を引き受ける」教師でありたい。

 そして、汲々とした現場の中で、息継ぎのできる筋道をたくさんしめしたい。

 そういった噴き出すような想いをグッとしぼって述べていく3人。

 

 その締めは西の魔女こと大江未知さんだった。

 引き込まれる言葉の数々。

 彼女に魔術が舞い降りた瞬間をみんなが息を飲んで見た。

 

 まつりは終わった。

 

ー後ー夜ー祭ーーーーーーー

 

帰り道、せーじさん、Nさん、Sおじさんがいたのは覚えているのだけれど、どうも記憶を落としたらしい。

 

ただ、私がこの先、どうやっていくのかをつらつら説明したり、自分の心の中で意を決したりしたことは覚えている。

(アホなエデュ・フェスの妄想が立ち上がり、今、現実味がある部分を実現しようとしている。その点は覚えているのだなぁ。)

 

こうも現場の教師が強く意識と活動量をもたなければならない教育の世界は、やっぱり不幸なんだ。

でも嘆いてばかりもいられない。

手を結んで共に同じ方向を向いて歩む人たちは、実は手を結んで歩いたりしない。

それぞれが立ち、歩むことからしか共同は生まれえない。

一緒に歩んでいると強く信じ、対話を交信し、お互いから学び、また進む。

そういうことを思い知った3日間だった。

 

また来年まで、地道に積み上げていこうと思った。

 

 

 

 まつり2日目の夜の話

 この日は、教科研の総会に出席したあと、ここで交流しなければいつするのか?というくらいの夜になった。

 

ー大ー交ー流ー会ーーーーー

 

 私自身には、この夜には強く意識していた目的があった。

・北海道から来ているMさんに久しぶりに会って親交を深めること事。

・第18分科会で話しきれなかった部分を、せーじさんとくまちゃんに聞く事。

・相模原市の実践家Sくんとの親交を温め、情報交換をすること。

 

 ただ、不安だったのが、どれほどの人数の集団になるのか…。

 個人的には大人数の飲み会は苦手だ。

 

ーMーさーんーーーーーーー

 

 果たして、Mさんと出会える所に足を運んだ。

 今回、より深く話せるようになったHくん、学びをつくる会のマルちゃんと同じテーブルで話し始めたら、しまちゃんがMさんを駅から連れてきた。

 SNSが発達して、普段から交流しているせいか、ほとんどタイムラグがないような感じだったけれども、リアルに握手すると再会の喜びがわいた。この感触は格別だった。

 

 彼からは彼からダボハゼの会の出自の疑問点について、丁寧な回答を聞くことができた。

 

 奇しくもまつりの前日にS県のIくんと出会っていた。

 その彼のところもそうで、同時多発的に出てきたそれぞれの会の意味づけを共通理解した。

 

 この年代に生きてきた現場人は、同じ情報の中をくぐって、主体的な活動を生み出し続けて生きてきた心の同志であるはずだと、勝手に私は考えている。

 それぞれの情勢の違いはある。

 またそこで生まれた経緯も異なる。

 でも、その事実を理解しあって、心をつなぎ合って、それぞれの現場で、次へのステップにつなぎたいと思って話をしていた。

 有意義な時間だった。

 

ーくーまーちーゃーんーーーー

 

 分科会で「撤退戦にしか思えない。」という言葉を聞いて、僕自身の闘い場所が間違っていたのかを確かめたくて話しかけた。

 (実際には、嵐のように飲み話し続ける周囲に負けて、答えが聞けたのが次の日の終わりの集いの休み時間だったのだが…。)

 

 私は、くまちゃんが言葉を解説し、そこに含まれる体系的なイメージを語るときがものすごい力量を発揮する人だと思っている。

 そして、現場イメージとのすり合わせを怠らない。

 おそらく私が今、一番頼りにしつつ学びたい、聴きたいと思わせてくれる素晴らしい学者だ。

 (そういう人をここで「くまちゃん」呼ばわりするのは、複雑な敬意の表現として、許してほしい。)

 

 まず、「『道徳教育』の存在、そして必要性を否定することはできない。」とくまちゃん。

 これは私自身も首肯するところだ。

 ここを前提にイメージを作っていかなければ、既存の道徳とがっぷり四つに組むことはできない。

 

 そもそもの『道徳』を否定することはできない。

 そして、その『道徳教育』を否定することも、現時点ではどの道でも無理だろう。

 

 その上で、だ。

 体系づけを基にしない「中断読み」の手法は、現在規定されている「道徳的価値(内容項目)」を批判せずに、かわしているだけに過ぎない。

 というのがくまちゃんの主張なのだと、私は今の段階では受け止めている。

 つまり、既存の枠組みある「道徳教育」を修正していくという方向性なのだろうか?

 ここについては、もう少し時間をかけて、自分の実践をもって対話したいと思った。

 

 私自身の現時点での実践経過としては、

・評価できる教材の選定。(ほぼ文言の書きっぷりも決まってくる。)

・「分断読み」でいくのか?「中断読み」でいくのか?の判断。

・子ども達の議論づくり。

がメインだった。

 それはそれである方向での授業づくりを一般化する方針としては正しいと思っている。

 

 じゃあ、この先どうしよう…。

 問は宙に投げられている。

 

 

 

 

 

 

まつり2日目のつづき。

 

ー分ー科ー会ー発ー表ーーー

 

 午後からの報告には何とか会場へたどり着く。

 報告順は配慮されてトップだったのものが変更されていた。

(申し訳ない…)

 

Iさんのレポ(小3年生)

 

 さすがのまとまりをもった報告だった。

 必要な情報を上手に取り込み、実践経過がこうあったということを時系列に説明するレジュメがつくられていて、それにきちんとそって報告。

 私にはこういうのができないから、才能のなさをなげくように、指をくわえて「へ〜」と感嘆の声を上げながら聞いていた。

 

 生活課題を道徳の授業にとりこんでいるのだけれども、クラス内アンケートをもとにしていて、クラス内課題として取り込んでいれば、それはクラス内の規範意識を高めることを自然に求めるものになっていったであろう「仕掛け」を感じた。

 

 以前、I先生のほぼ1年に及ぶ高学年器械運動実践を思い出さずにはおけなかった。

 今回はおおよそ2回分の授業づくりに関してだが、その粘着気質的な部分、綿密さを思い出した。

 

 ただ今回の道徳では、生活課題は改善というところまで意識付けがならなかったとしている結果が述べられていて、そこは「?」だった。

 

 そこには個人的に意見を挟んでみた。

 それは、

「道徳は、直接的な生活課題の改善のためにあるのではない。」

ということ。

 

 領域「道徳」時代、まことしやかにいわれていたのが、「道徳的人格育成」に関して、日々の生活課題の改善がつながるものもあるけれど、それをもって道徳教育とはならないということだった。

 

 「道徳」の奥深さのようなものだが、発達段階として、どのような見通しを持てばいいのかが明らかになっていなかった領域「道徳」は、当時から、私にとって夢物語のようなものだ。

 

 教科「道徳」導入にあたって、領域「道徳」の弱さにもなった部分のような気がするので、この点は、既存の「道徳屋」に聞いてみたいもんだといつも思っている。

 

 そういうことはあっても、I先生の道徳授業づくりは、道徳的な指標を直線上で表し、子どもたちにプロットをさせるなど、子ども達にわかりやすい形で意見の違いを分析させ、主体的な活動を促す部分が多く、議論する授業としての「仕掛け」が機能しているように思えて、上手だと感じた。

 まとまりのある、いい報告だった。

 

私のレポ(小2年生)

 

 横道から入るが、最近の私の実践報告は「板書」を用いるものがほとんどだ。

 昨年度(4年生)はことさら、国語もそう、理科もそう、板書に子ども達の意見を集約し、議論もそこに記録したし、時には出てきた言葉のマッピングを私の方でやってみせたこともある。

 これに、子ども達の書く、振り返りカードやミニ感想の記述を合わせて、実践記録としていた。

 

 今回の道徳もその手法をとった。

 1学期に、雑誌「教育」5月号の中村論文を根拠にした道徳の授業づくりを目指した。

 個人内テーマとしては、「一般化、平易化できる議論のある授業」と、「評価をねらうことができる授業」だった。

 

 ところが実際には、2年生という児童の実態を考えざるを得なく、「意見を出し合う経験ができる授業」がせいぜいということになってしまっていた。

 

 それでも、子ども達の変容を見とって「評価」に生かせる筋ができたことは示せたと思う。

(道徳に評価が必要かどうかは別議論。というか「道徳」自体反対の立場。あくまでも「通知表」上の記述が、うそでも可能となる状況の確認という意味。)

 

(私自身の報告に関するまとめは、また別に行いたいので、ここではオミットする。)

 

Sさんのレポ(小4年生)

 

 「道徳の教科化を考える会」から、実践家として召喚したSさん。

 教研へ報告するレポをもって話してくれた。

 手法について丁寧に語ってくれたので、「分断読み(一読総合法)」、「中断読み」の違いがよくわかった。

 また、どこで「中断」するのかを、きちんと語ってくれたのは参考になった。

(知りたい方は連絡をください。ここでは教えません。)

 

ー自ー己ー内ーまーとーめーーー

 

 全体を通して、教材文の内容、教科書の構成、道徳の内容項目について議論が及んだ。

 

 結果的には「特別の教科 道徳」がもっている、偏向的な部分、内容の貧しさなどが明らかになった。

 これでは教えられる方も教える方も不幸である。

 

 ここで提案された授業手法は、一つの回避の方法だが、真に「道徳教育」というものを捉えているかといえば、そういうことでもない。

 「道徳教育」を必要な内容として捉えるとき、総がかり的な研究は必要になるだろうけれど、少なくとも、国の施策として進める道徳教育がこの形であることについての危険性は、きちんと批判的な警鐘を鳴らしていかなければならない。

 

 授業づくりを考える上でも、やはり障害となるのは、こうして「道徳」を導入することで現場を疲弊させる政治的な動きの方だということが確認できたのではないだろうか。

 まつり(教科研大会)2日目。

 

ー分ー科ー会ー選ーびーーー

 

 今年は、第18分科会「教室と授業を語る」にいくことにした。

 この分科会では、2日目に、私自身も授業の様子を報告する者として参加が決まっていたので、世代的には微妙だったのだけれども、こちらに関わることにした。

 

 話は変わるが、私の世代で、こういった面倒の多い教育実践研究(別に、教科研だけがそうだというのではなく…私は他にも多数の関係者なので…。)に関わる人は少ない。

 実務家が多いのかどうかはわからないけれども、もうちょっと功利的に生きている人が多い気がする。

 

 バブル世代だからだろうか…。

 それとも私のやっかみだろうか…。

 まあ、今ではあまり気にしていないけれど、一時期はなんて冷たい世代なのかと思っていた…。

 

 そんな私は、自分の経歴として、同じ教員年代がここ(第18分科会)の世代にかぶっていることだけを意識している。

 私が小学校現場に入ったのは32歳のときだ。

 当時22歳の世代と被っているということだ。

 

ー第ー18ー分ー科ー会ーーー

 

 奇しくも、この分科会の主要メンバーは、バブル崩壊世代、つまりロスジェネが重なる人が多い。

 つまりは私が小学校教諭としての同年代の人たちばかりだ。

 最近では、下の年代も呼応するように混じってきている。

 

 第17分科会も、2006年の若い教員の自死事件に焦点化したこともあるように、当初はその世代・年代にクローズアップしてきたはずだった。

(今は、そのころの余波として、現場の改悪が変質拡大し、その中で困難を抱えている若者教師に注目しているのだと理解している。学びをつくる会の、中心的な問題意識や活動のねらいも、ここに傾斜してきている。)

 

 他方、この第18分科会は、自分たちの世代意識を読み解きつつ、自己強化にとどまらず、普遍的な「教育」の探究という「知の冒険」に賭けているところがあると、私は思っている。

 私は、自分自身が過去に囚われて、そこを活動原理にしようとしている点を反省させてくれるという点で、ここに関わる人たちを信頼している。

(だいたい、自己強化やその拡大生産に賭け、功利的に生きる程度の実践家が、世の中で目立っているというのに、そんなものには目もくれず、真理は別だといわんばかりに…だ。)

 

ー遅ー刻ーーーーーーーーー

 

 余談が過ぎた…。

 

 ついでにいうと、ここで次回送りする。

 この2日目、私のミスだが、午前中の分科会を欠席したからだ。

 ここでは、この分科会の中心的役割を担っている若い研究者2人の、道徳授業づくりへの理論的、基本的な枠組みが報告されたはずなのだが、ごめんなさい。