【そうじゃない感】
町田市の小6児童のいじめ起因の自殺についての報道がなされている。
この件について思うことを少し書き留めておきたい。
何よりも、この痛たましい事件に関しては、亡くなった子どもの冥福と、両親、親族ならびに近い関係の方々の哀悼の意を表したい。
このようなことが世の中から無くなってほしいと切に願いたいし、私になりに努力したい。
今の一番なされてほしいことは、事実が明らかになることだと思う。
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1.学校の現状という背景について
いろいろな報道記事を読むにつけ、「学校のIDなどの管理がずさん」という点は、どうやら事実のようだ。
校長がずいぶんそのずさんさに拍車をかける指示を出していた可能性を述べる記事も目にした。
これについては、私自身も学校現場を知るものとして、正直、そういったことが起こってもおかしくないという残念な所感をもっている。
それほどに学校現場は管理ばかりが徹底され、上意下達でものごと進み、思考停止が覆っているところが多い。
この件によらず、さまざまな学校教育現場の問題の1番の背景は、いつもここだと私は考えている。
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2.SNSやチャットなどについて
SNSやチャットなどのネットツールは、「人の関係の触媒」のようなものだと私は思っている。「触媒」は双方のやりとりを加速、過激化するというイメージだ。
工業的には「触媒」を上手に利用して、反応速度を上げる効果を狙うのだけれども、反応が過激になってしまえば、それは取り返しのつかない暴発や事故につながるのは、化学的には当たり前の認識だと思うがどうだろう。
人の関係に「過剰な触媒」を用いることは、関係上の危険が生じる可能性が高まる。そのことを理解せずに、そういったコミュニケーションツールを用いれば、こういった結果を生むことは、実際には「わかっていたこと」ではあったはずである。
その中で、IDやパスワードが共通であったというのは、予期される問題について、あまりにも甘くみていたと言われても仕方がないことだと思う。
個人的には、この点に気付かなかっ教員はいなかったのではないか?と思えてならない。
少なくとも私がこの学校の教員であったら、この危機自体は把握していたはずだ。
(私であれば、上申したであろうし、周囲の教員に投げかけもしたはずだ)
学校がそういう関係を生み出すツールの「暴発の引き金」が、非常に軽くなっていたという認識があまりに不足していたのではないか?という疑念を挟むことは、現時点では否めないだろう。
「大丈夫か?ここの教員!」と言われても仕方がない。
ただ別な報道では、校長がそこを恣意的に推進してきたという話もある。
そうであるならば、この下に働いていた教員は不幸としかいいようがない。
今の学校現場は、こういった上意下達に対して無力だ。
今や職員会議さえない学校が増えている。
保護者向けの学級通信も発行が自由ではないし、学校によっては実質的に禁止のところもある。
言葉を奪われ、声を上げられない、口を閉ざされた教員の存在が、今の日本の(大きく言い過ぎなら東京都の)教育を覆っている黒い霧なのだ。
だからパワハラも大手を振って横行しているところが生まれる。
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3.集団づくりや学級づくり指導が無いこと
ひとつ、背景的な部分を指摘しておきたい。
昨今の学校の指導内容についてなのだが、人との関係がうまくなっていくような指導がなされているだろうか?
関係について指導するときに、一方的なものになっていないだろうか?
民主主義の形態を教える児童会選挙などの活動も今の都下の学校にはない。
個人的には、集団を指導するための理論と実践について、かなりトップダウンで一面的な見方や方法が強調がされてきているのような気がしてならない。
いや、あまりそういった目線が共有されていないどころか、そういったものがあるという意識ももたない教員が増えている気もする。
今の学校は、上意下達の管理社会で、末端である教師に教育の自由がまったく保障されていない。かなりむごい状況であることは、#教師のバトン を調べてみても明らかだろう。
そんな環境下の教員たちに、人間関係を育む環境が用意できないことがあるのではないだろうか。
民主主義や人権、平和、心身の自由について、語れる場に学校はなっているだろうか?
個人的には、子どもや保護者にも、末端教師に対しても、テスト漬けや人材スキルの向上ばかり求められ続けている教育の状況こそが、さまざまな暗黒面を生み出しているとしか思えない。
そういった観点を忘れずに、少し視線をずらしてみよう。
「学校スタンダード」もその一つではないだろうか?
某市では、子どもに学校スタンダードに従うと誓約書を書かせていると聞いた。そんな抑圧下の中で、人としての関係が築けるとは到底思えない。
割とその中であるのが、やたらレッテル貼りをする特別支援的な教育(特別支援教育とはあえていわない)、形式ばかりのSST、一問一答ともいえるゴール明示方式の特別の教科道徳の授業・・・
また、そんなものに頼っている教員が、高度な教育を行えるとは到底思えないのだが・・・。
もっと人の関係をあたためていくことができる学校になっていかないだろうか?
そのためにもっと自律的、自主的に共同し、創造していく学校づくりはできないものだろうか?
思考停止しているというのは、そういうことではないだろうか?
もっとよりより教育は?と追究する教員が育まれる学校にはならないのだろうか?
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4.煽られる資質・能力
今回の事件と間に触媒的に挟まったICT機器、そして学校の問題について、別な角度で考えなおしてみる。
情報スキル教育が先進国で劣っているという競争の煽りをそのまま受けて、やたらに教育施策の積み木を積み上げ続けてきた上に、「端末で授業や宿題をすればいい」というやり方がどうだったのだろうか?
また、各地でそうある状況、学校という存在自体は問われるものがあるのではないだろうか?
やはり二度とこういった悲劇を繰り返してはならないわけだから、抜本的に考えるべきではないだろうか?
学校とはどういう場であるのかを今一度、いや二度も三度も、しっかり振り返って、だれもが当事者として声を上げ、変えるべきを変えていくことが必要なのではないだろうか?
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一言ぼやいておく。
情報機器に関していえば、情報受信的なツールであるタブレットよりも、よほど情報作成、発信の創造的なPCの方が優位だと思うのだけれども、学校によってはあれだけ有り難がって入れていたPCを全廃してタブレットに入れ替えたところがある。
こういうトップダウンって、ホント、「馬鹿!」としか言いようがない。
これと同様に、この事件への対応が、学校に心理士を増やしましたとか、外部専門家による学校指導が常時入るようになりましたとか、道徳教育を強化しましたなど、そういった破れ鍋に綴じ蓋な性格のものが入って終わりということになるのが一番危惧していることだ。
現場責任ではなく、社会的な責任を感じ、学校教育がよりよくなることこそが大事だと思う。
