2024年 3月 11日(月)


​あれから13年

​みなさんこんにちは😃
だんご職人🍡です。

今日の話題は13年前のことです。
皆様おわかりかとは思いますが、13年前の今日は東日本大震災の日です。

13年前のこの日の数日前、妻は実家のある宮城県北部の病院で長男Kを出産しました。
その日、翌々日の退院に向けて初めてのお風呂に妻は入れたそうです。
そして、その間Kのことをみてもらうため、妻は母を呼んでいました。その風呂上がりの14時46分。宮城県北部において凄まじい揺れを受けました。
妻はとにかくKを守るため、体を使ってかばい、義母はベッドのそばにあったロッカーを必死に押さえたそうです。
とにかく長い揺れ。
おさまった時、病院は無事でしたが配管が壊れ1階は水びだしになっていたそうで、耐震性の悪い本館に病棟のあった産婦人科の患者さんは産直後の方も含めて歩いて新館へ移動したそうです。
家は全てのものが散らかって、足の踏み場もなかったそうで、もし、義母が家にいたら少なくとも怪我していたであろう状況でした。
Kがいたから無事でいられたとは今も義母がよく言ってます。

義父は当時石巻の学校教諭でした。
学校は定期試験後で生徒はほとんどいなくて、同じ方面の先生たちと相乗りでなんとか帰ってきたそうです。
細かいことは言わないですが、壮絶な現場を見てきたようです。
妻のきょうだいも市内で働いており、無事でした。
意外に連絡が最後まで取れなかったのは私で、妻からはLINEで無事である旨連絡があったのですが、電波混雑により私からは送れない状況でした。

その日の夜、なんとか電話で連絡がとれました。
翌日からは義父と義弟は食料調達のため、あちこちへ。妻と義母は息子の世話と家の片付け。義妹は市民病院の医師だったので現場で戦っておりました。
もともとバーベキューなどよくやる家でサバイバル能力が高かったのは良かったです。

お七夜は停電で電気が使えない中、ロウソクの灯りの元、行ったようです。
私が行けたのは震災(金曜)翌週の土曜日でした。
高速も新幹線も不通で、仙台空港は甚大な津波被害を受けた中、普段は飛ばない羽田→山形便をJALが臨時便で設定。山形空港→仙台駅はバスを出してくれました。
欲しいものを聞くと新鮮な魚介類が食べたいとのことだったのでクーラーボックスに近所の美味しい魚を仕入れる魚屋さんで大量の魚を購入して詰めて持って行きました。

それからは東北自動車道が開通したので、車で毎週末向かいました。
インフラは徐々に復旧してましたが、道路はとにかく福島県内の道が悪く、波打っているような状況で飛ばしてしまうと跳ねてしまうような状況でした。

原発の問題があったので、東京に妻と息子が帰ってきたのはゴールデンウィーク明けの頃です。
そのちょっと前、4月の下旬には東京都の命令で支援活動のため陸前高田に派遣されました。
職場から1名派遣要請があり、妻や息子、家族が東北でお世話になっている私が行くべきと思い、手を挙げました。

都庁からバスで岩手県の一関へ。そこのホテルを都が貸切で使用して、そこから被災各地域へ小隊を派遣するようなかたちでした。
大船渡や陸前高田、気仙沼などにそれぞれ向かいます。
ドライバーさんも都内からきたボランティアの方ですでに何度も運転しているそうです。
一関から陸前高田に向かう途中、のどかな山間部を走っていました。もうすぐ陸前高田というところで線路が盛り土の上にあるのですが、その向こう側に異変が現れました。木々も草も何もないんです。
そしていよいよ市街地が見えてくるというところで我々は息を呑みました。
広大な土地に何もないんです。

ところどころにコンクリート製のビルはあるもののそれ以外は本当に何もなく、はるか遠くに海岸線が見えました。
本来ならここには見事な髙田松原という松が約7万本も生えた松原があったのですが、1本を除き全て流されてしまっていました。
震災から1ヶ月以上経過しており、流された家屋や松などはほとんどが多くの人の力で片付けられていました。それ故に津波がどこまで到達しているか、その強大な力をまざまざと見せつけられました。

その後、県立髙田病院の院長先生と知り合い、先生から病院の状況を許可を出すので見ていって欲しいとおっしゃっていただき、視察させていただきました。4階建で1階、2階は全く病院だった面影はなく、3階に行くとかろうじて流されたベッドなどから病院だったんだというのがわかる状況。
窓には流された髙田松原の松の大木が何本も突き刺さっていました。
4階はベッドは残っているものの、水がベッドの高さ位まで上がってきたあとがありました。
屋上には避難してる時に使ったであろう簡易のポータブルトイレを使ったトイレが端っこに設置してありました。
1人でも多くの命を救うため2階や3階から入院患者さんをスタッフが抱えて屋上まで移動したこと、その時津波が来て犠牲となってしまった職員の方がいたこと、屋上まで避難したものの雪降る寒さの中、充分な暖を取れず失われてしまった命があったこと。そういったことがあったということを院長先生から伺っていたので、我々チーム全員が自然と屋上で黙祷を捧げていました。

あれから13年。
多くの人の助けを借りてKは13歳を迎えました。
その後も新潟や熊本、北海道に先日は能登など大きな震災は起きています。そして、残念ながらこれからも起こるでしょう。
大人になった時、どのような形でもいいので、彼が受けてきた恩を少しでも返せるような人間に成長してほしいと親として願ってます。

最後にあの震災で犠牲となられた方々のご冥福を心よりお祈りするとともに、未曾有の大惨事の中、懸命に命を守るため、生活を守るため、故郷を守るため奮闘いただいた全ての方に感謝の意を表したいと思います。

だんご職人🍡